死、見ること期するが如く(2)

         死、見ること期するが如く(2)





「ひなたちゃん、ここなちゃんが来てくれたよ。お見舞いだって」
 ひなたちゃんの返事はない。ひなたちゃんの部屋は扉も開けっ放しで、部屋着を着崩したひなたちゃんは茫然とその中に佇んでいた。まるでお葬式の写真だ。
「ひなたちゃん?」
「うるさいなぁ」
 玄関まで出た僕がやや大きな声で促すと、不機嫌そうに小さな声で返事した。ちらかった部屋の中でいつものように彼女は壁に小さな肩を預けているにちがいない。
「良いんですよ、加藤さん」
  ここなちゃんは努めて優しく言っている風だった。頭からとった帽子がそよそよと夏の風に揺れていて、表情からして涼しげだ。
 
 
  
  今はその気遣いすらひなたちゃんを傷つけるのに。
  
  
  
「ごめんね、やっぱり調子悪いみたいで」
「良いんです、私は別に。これを渡しておいて頂けますか?加藤さん甘いものがお好きでしたよね。確か幻覚を見るとかいう」
 僕の知床連山冬季単独縦走の時の笑い話をここなちゃんは覚えていてくれたのか。笑えないのだが。二週間コマイの煮干ししか食えなくて死にかけたことを。 
  紙袋を受け取る。
「ケーキかい?ゆめさいか…すず…。ああ、えっとひなたちゃんの友達がバイトしてるっていう…」
 奥で急に物音がした。時間がどんどん圧縮されて、緊張が走る気配がした。冬山で天候が急変する、あれだ。雲が変わり、気温が変わり、そして視界が変わる。
  僕は身構えた。ここなちゃんは敏感に僕の心情を察して肩をすくめる。表情は小首をかしげる少女なのに、したたかな子だ。山で絶対にやられない奴だ。
「なんなの!私が学校にいけないのがそんなに嬉しいの?私への当てつけなの?」
「ひなたちゃん!やめて!」
 恐ろしい形相のひなたちゃんが僕の真後ろに立っていた。あんなに力を失っていたのに、どこからこんなエネルギーを発しているのか。 ここなちゃんはにこやかに微笑んでいる。僕はとりあえずここなちゃんを玄関から出そうとしてここなちゃんの手をつかんで、ぎょっとなった。
 ここなちゃんがその小さな握りこぶしを強く握りこんでいる。石ころのように強く。そうか、この子も辛いのだな。
 僕はここなちゃんの手首のあたりを掴んで、少し乱暴に外に追い出した。外からドアを閉めて背中で押す。中から恐ろしい怒声が響いた。
「おい!ここな!聞いているんだろ!そこにいるんだろ!私のこと馬鹿だと思っているんだろう!私を売女だ、人殺しだと思っているんだろう!ふざけるな!あおいの店にわざわざ寄ってきてあてつけのつもりか!」
「元気そうですね…」
 ここなちゃんは超然としていた。手のひらは相変わらず深く握りこめられていて、爪が食い込んで血が出るんじゃないかと心配になるほどだった。僕にまで気を使わなくていいのに。優しい子だ。
「じゃあ、私は失礼します」
「ごめんね。本当にごめん」
「良いんですよ。いつものことですから…」 最後まで表情は笑顔だった。ひなたちゃんもこの間まではあんな風に笑っていたな。
「あおいと仲が良いんだね。よかったねえよかったね。おいここな!貧乏人がふざけるな!なにがケーキだ!貧乏人が!どうせ淫売のお前の母親の財布から代金もくすねてきたんだろう!私が人殺しならお前も人殺しだ!お前の母親も全員人殺しだ!この人殺し!」
 聞くに堪えない。とうとう他所の部屋から人が出てきた。
 僕は小さく舌打ちしてしまった。ここなちゃんは耳ざとくその舌打ちを聞きつけた。そして僕を諭すようにゆっくりと言う、一音節づつ区切るように。
「私なら大丈夫ですから。それに、たぶん」
 唐突に緊張が解けた。妙な解放感。夏の音と夏のにおいがする。外は蒸し暑い飯能の夏だった。
 嵐は止んでいた。暴風がやんで、静かに呪いの言葉が漂っている。
「ひとごろし、ひとごろし、ひとごろし…」
 小さな声が繰り返している。僕は我に返って振り向いた。背後のここなちゃんは静かに後ずさりして、僕にだけ聞こえる声で失礼します、とだけ言うと踵を返した。
 刺激しないように配慮してくれたのだ。僕は心の中でここなちゃんに謝ることしかできない。
  扉を開ける。すっかり破壊された玄関で、ひなたちゃんはうなだれていた。
「あの女は帰ったの?」
「あの女って…ここなち…」
「帰ったの?」
「帰ったよ…」
 ひなたちゃんはよろよろと部屋に戻っていった。玄関にはケーキが置いてあった。滅茶苦茶な玄関でそれだけが奇妙なくらい綺麗に残っていた。