ミルフィーユ
ソビエト兵にレイプされた後遺症でミルフィーユは下半身不随になってしまった。それでもミルフィーユは僕の前では明るく振舞おうとし、僕もそんなミルフィーユを元気付けたい一心で、昔のように冗談を言ったりするのが常だった。
夏休みが終わった砂浜はとても静かで、僕は車椅子からミルフィーユをおろして両手に抱え、彼女の身体を海辺まで運んだ。
「わたし、重いですよう」
顔を赤らめてミルフィーユが言う。こんな可憐な彼女に非道の限りを尽くしたソ連兵にいまさらながら憤りを感じた。
「なにいってんだい。軽いよ、ミルフィーユは。もっとご飯を食べて元気にならなきゃ駄目だぞ」
ミルフィーユのふくよかだった身体もまるっこい顔も、とてもやせ衰えてしまっていた。化粧でごまかしてはいても両の手にかかる重みが、違うのだ。
―軽い。
そのことに不吉さを感じ、僕はあわててかぶりを振った。だめじゃないか、僕がこんなじゃ。
砂浜にシートを敷き、その上にミルフィーユを座らせる。僕はジーンズだったのでじかに砂の上に座った。
「択捉島に、越してきて、よかったですねえ」
「そうだね」
僕は短く応じた。答えるのがすこし、辛かった。ミルフィーユがあんなことになったのは樺太でのことなのだ。本当はもっと遠くに引っ越したかったのだけれど、ミルフィーユは同僚の電信員のいたところの側にいたいといったのでなるべく樺太に近いところにしたのだ。
「ミントさん、ヴァニラさん、ランファさん、フォルテさん・・・。」
ミルフィーユは目を閉じて、何かを祈っていた。僕も胸に手を当てて、彼女らの冥福を祈った。
ミルフィーユは不自由な身体でお菓子を焼いてきていた。
実は、ミルフィーユはあの一件以来味覚が壊れてしまっている。精神的なショックによるものだ、と医師には説明された。けれどミルフィーユは記憶を頼りにお菓子を焼く。その味は年々甘みが増していって、ミルフィーユの味覚の記憶が薄れていっているのだ、と僕に悟らせた。そのことを考えると涙が出そうで、僕は半狂乱になって医者を回ったことがある。
けれど、今の僕たちにはそんなことは些細なことだった。あまい、あまいクッキーをかじる。紅茶は僕が入れてきた。紅茶は砂糖を控えてきたので、丁度よい味になった。
「寒く、ない?」
ミルフィーユは無言で笑った。僕がはおっていた上着をミルフィーユに着せてあげようとすると、ミルフィーユは立てていた自分の膝の間に顔をうずめた。
「ミルフィーユ?」
ミルフィーユはないていた。
「ごめんな、さい。優しくされるの、つらいん、です」
また、やってしまった。ミルフィーユがこうして泣き出すのは今に始まったことではないのに。
僕は無言でミルフィーユの痩せた背中をなでてあげた。そうするより他ないじゃないか。
「つらいのなら、くすりを―」
僕がブロバリンの小瓶を出そうとすると、ミルフィーユはそれをせき止めるように手を上げた。僕はとたんにすぐに薬物で解決しようとした自分が恥ずかしくなって、そしてミルフィーユがこんないわれのない苦しみを受けていることに腹が立って、それで。
泣いた。
「ごめんよ、ミルフィーユ。僕も、泣かずに我慢していたけれども、限界みたいだ。ずっと、我慢していたんだ。君の苦しみがすこしでも和らぐように」
ミルフィーユの肩に手を回した。
「君を、抱きしめて、いいか。泣いている顔を見られたくない」
「私も、見られたく、ないです」
僕たちは抱き合って、遠慮せず激しく泣いた。
9月のオホーツクの風は冷たかったけれども、ミルフィーユの身体は温かくて。ミルフィーユの頬は柔らかくて。
夕暮れになったころ、僕はミルフィーユに一緒に死んで欲しいと頼んだ。