ミルフィーユの朝 -Awakenings-(その1)

 病院というところは何て憂鬱な作りをしているんだろう。もう少し調度に気を使えば良いのに。私は毒づいた。精神病院であればなおさらだ。神経症の患者など、この環境ではますます気がめいることだろう。
 病室の母を見舞う。母はこの病院に入って25年になる。子供のころ、自分の母親がきちがいだということが理解できなかった。統合失調症とやらに母の病名は変わったが、なんのことはない。薬物で眠っているか、ぼうっとしているだけだ。私のことを注視することさえない。今日はおとなしく寝ていた。私はいつものように看護士さんやお医者さんに挨拶し、病室を辞した。
 何の感慨もない。私は定期的に母を見舞い、そうして帰るだけだった。他に家族はいない。かといって、私は母の存在を貴重なものとみなしていなかった。彼女が幼い私をモノとして扱ったように。義務。それだけのことだ。
 閉鎖病棟をでると、病院の食堂がある。私は夜の仕事までの間に食事をここで済ませることにしていた。旨くはないが値段が安く、時間もかからないからだ。食券を買い求め、トレイを受け渡し口の前のパイプの台に置き、3種類ある定食から選ぶ。
「中華定食」
 そういうと食堂のおばさんが麻婆豆腐を椀によそった。と、私の背後で、
「ちゅうかてい、しょく?」
 若い女性の声がした。おかしなアクセントだったので振り返ると女の子が立っている。背は高くもなく低くもなく、地味だが品のいいスーツを着こなしていた。食堂のおばちゃんは顔見知りのようで、なんんだかとてもにこにこしながら食べ物を差し出した。
 私がライスを取り上げると彼女も取る。揚げ物の並べられた皿を私が引き寄せると彼女も引き寄せる。コップに茶を注ぐと彼女も。いつものひがみっぽい私ならなんだか馬鹿にされているように感じると思うのに。なぜだろう、特に腹は立たなかった。
「僕の真似をしているの?」
 自分でもびっくりするくらい優しい声が出た。女の子はえへへ、と笑った。幼いイメージだが、ここの看護婦か職員なんだろうか。美人というよりまるっこくて愛らしい顔だった。瞳がくりくりしている。
 食堂はすいている。私はいつものように窓の近くの席に座った。女の子はこちらを伺うように見ている。私はにこりとわらって目の前の席に手のひらを差し出した。彼女はニコニコしながらこちらに歩いてきて、私の前の席に座った。
 彼女はトレイを机におくと、どうしたのだろう、手をひざの上において俯いてしまった。私は箸を割った。
「食べないの?冷めるよ?」
 不思議な子だな。そう思いながら鳥の唐揚げを拾い上げた。
「君も、誰かの、お見舞い?」
 ふるふると。首を横に振る。長めの髪が揺れる。綺麗な髪だった。
「じゃあ、看護婦さん?あ、今は看護師さんって言うんだね」
 彼女は首を振る。
「うーん、じゃあ、職員の人?」
 見たこともないなあ、こんな人。ネームプレートも付けていないし、第一随分とフォーマルな格好をしている。そう思っていると、彼女はやっと顔をあげて口を開いた。
「ここの患者ですう」
 え。私は唐揚げを取り落とすところだった。冗談。ではないのだな。
「とてもそんな風には。第一」
 だとしたら病室の外には出られず、この食堂にもこれないじゃないか。
 と。そういえば、食堂中の人間が私たちに注目している。とても好意的な表情だった。全員が、ここの病院の職員や、その他関係者だが、食堂で食事をする限り他人に注意を払うことなどありえない。いま私が彼女と会話していることは、どうやら相当特別なことなのだ。
「本当ですよぉ。特別に、出して貰っているんです」
 すこしおっとりした声だった。そうして、それきり黙ってしまった。どうやら彼女は自分から話題を切り出すのは苦手らしい。
「―そうなんだ。とてもそんな風には見えないけど」
 えへへ。また、にっこりわらって、それきりなにも語らず彼女は私を見た。なにか話をすることを期待されているようで。
「僕は、母の見舞いで。ほとんど眠ったきり動かないんだけれどもね。多分僕のことなんてわかっていないよ。君はどんな病気なの?」
「あの、えと。似たような病気です。あなたのお母さんと。今は投薬を受けているんです。それで、こうして」
「それは、おどろいたな」
 投薬で直ったのか。かといって、母にそれを望む気などさらさらない。あの母親にはこれからも眠っていて欲しいのだ。
「だから、眠るのが怖いんです。目覚めることが出来なくなりそうで」
 笑いながら彼女は言う。
「それに、今まで眠っていた分いろいろと知りたいんです」
 彼女のことはよくわからない。どのくらい彼女は”眠って”いたのだろう。
「えと、名前は?」
ミルフィーユ。ミルフィーユ、桜葉です」
「変わった名前だねえ。外国人?」
 彼女―ミルフィーユはうーむ、と首を捻った。
「覚えがないんです。どうやら眠っている間に忘れちゃったみたいで。あはは」
 彼女の笑顔には、およそ屈託というものがない。私はなんだかどきどきしてしまった。
 それからすこし、たわいもない話をした。私の仕事のこと。といっても僕はただの土木作業員で、仕事で面白いことなどたいしてないのだけれども、ひとつひとつに大仰に驚いてくれたり、とても楽しそうに話しをきいてくれた。
 楽しい時間はすぐに終わった。ミルフィーユは僕を病院の出入り口まで送ってくれた。警備員は穏やかな顔をしていたが、油断なく僕たちを見張っていた。
「退院したら、いろいろ案内してあげるよ。考えておきなよ」
 そういうとミルフィーユは俯いてしまった。しまった、回復の見込みは立っていないのだろうか。確かにすこしとぼけたようなところはあるけれど、まるで具合が悪いようには見えないのだが。
「じゃあ、また来るよ」
 私は手を挙げた。警備員に玄関のドアを開けてもらう。
「あのう」
 ミルフィーユが去り際に言う。
「お母さん、きっとわかってますよ、あなたのこと。眠っているように見えても、わかってらっしゃいますよ、だから」
 私はあいまいに微笑むと、手を振って外に出た。
 病院をでて暫く歩いた。すこし離れたところでふと病院を振り向く。格子の嵌められた二階の窓から、ミルフィーユがこちらを見ていた。ミルフィーユは僕と目があうと手を振ってくれた。僕も振り返す。
 本当に、患者だったんだな。暫くそうしていたが、やがて手を振るのをやめて、私は歩みを速めた。


 
 
 
 
 
             (続いて…いいのだろうか?)