ともよちゃんが向き合っていく「これから」について考えると、僕は気が気じゃあ無くなってしまう。ともよちゃんはきちんと立ち直ることが出来るだろうか。一人で生きていけるようになるだろうか、と。そのことばかりを考える。
 まず外へ出て。それで、学校に行って。ともよちゃんは、大丈夫なはずだ。とても社交的で、落ち着いているけれども本当は明るい子だ。今度は絶対にしくじらない。大丈夫だ。あんな酷いこと、絶対にともよちゃんにはさせない。
 けれど、いくら自分に言い聞かせても、不安だ。もし今度ともよちゃんに何かあったら、僕はどうなってしまうのだろうか。

 仕事中だというのに、どうにも考え事ばかりしすぎて、そのうちなぜか涙まで流してしまった。会社で泣くのなんて初めてだ、上司に見咎められて、目にごみが、などと僕は陳腐な言い訳をした。

 会社を出ても気分は晴れなくて。今日が丁度ジムに行く日だったのは幸いだったかもしれない。軽めに流して、などと思っていたが気がつくとへとへとになるまで追い込んでいた。どうもこのところ2,3日に一度は筋肉がぱんぱんにならないと気がすまなくなってしまったようだ。
「村田さん、すこしオーバーワーク気味ですよ。すこし筋肉を休めたほうがいい」
 と、このところ懇意にしてもらっているトレーナーの人に忠告された。ありがたく頭を下げる。悩み事があって無茶をしている、などとはとてもいえない。
 
 
 
 
 
 何故だろう。どうしても、家に帰りたくない。ともよちゃんが待っている、あの家に。この日常が変わってしまうことが、怖い。このままで幸せじゃないか、と言う身勝手な囁き。ともよちゃんを一刻も早く普通の生活に戻すべき、という思い。
 僕は、お酒を飲んだ。あんなにともよちゃんに謝ったのに。
 駅の売店で缶ビールを買って、喉に流し込んだ。泡ばかりでちっとも旨くない。それから結局帰り道の酒屋の自動販売機でチューハイなどを何本も買って飲んでしまった。
 
 
 
「おかえりなさい」
 玄関でともよちゃんが笑っている。
「ともよちゃん、僕は駄目な人間だ。お酒を飲んでしまった。今度は、許してもらえないよね」
 悲愴な気持ちで言った。自分の弱さが本当に悲しくて。こうして、ともよちゃんは僕に愛想を尽かしてしまうのかなあ。
 それもいい。でも、ともよちゃんは。
「まあ、嘘を言われては困りますわ」
 などと。微塵も笑顔を崩さない。
「嘘じゃないよ、ともよちゃん、ほら、顔を見てくれよ。赤くなっているだろう。僕はあんなに言ったのにお酒を飲んでしまったんだよ。だから、もう」
 くすくす。ともよちゃんが口を隠して、笑う。見るとともよちゃんは部屋着にエプロン姿で。
「お夕飯の準備をしていたら眠ってしまいましたの。ああ、ガスはちゃんと消しましたわ。さあ、いつまでも冗談を言ってないで」
 ともよちゃんが手を差し出す。
「さ、早くおあがりになってくださいな。お味噌汁をあっためて差し上げますわ」
「嘘じゃないんだよ。本当に。そうだ、この間やったみたいに僕の息をかいで見たら良い。そうしたら」
 僕は息を吸い込んだ。言うべきでないとは思ったけれど、口に出してしまった。
「きっと僕のことを嫌いに―」
 
 と。そのとき。ともよちゃんが突然。
 
「なりません!」
 
 ともよちゃん。僕は其の場で立ち尽くしてしまった。こんな激しい彼女の声を、僕ははじめて聞いた。ソプラノの透き通った声はとてもよく響いて。それで。僕の体の細胞のすみずみまで浸透していくようだった。
 すこし、間があって。
「ともよ、ちゃん」
 僕がやっとそれだけ言った。
「嫌いになんか、なりませんわ。ですから、さあ」
 もう一度、ともよちゃんが手を差し出す。
「ともよちゃん、その」
 あ。ともよちゃんも、なんだか困ったような顔をしている。そうだよ。僕は、何を。
 ともよちゃんの手を取る。やわらかくて、真っ白な指先。
「その…ともよちゃんの手、すこし荒れてしまったね。」
 ともよちゃんの表情にかすかに乗っかっていた困惑のニュアンスが薄れるのを感じた。微妙な心の変化。そうだ。僕たちはこんなにこころが通じ合っているのに。
「―ええ。でも、その代わり得たものもありますもの。だから」
「ごめんね、綺麗な手なのに」
 僕は一心に謝った。会社の取引先にだって、こんなに誠心誠意頭を下げたことなんてない。
「ごめんね、その…こんど、あまり手の荒れない洗剤、薬局とかで探して買ってくる」
 まあそれは、とか、有難うございます、なんてともよちゃんが言う。
「さあ、冗談はこれくらいにして、はやく晩御飯を召し上がってくださいな。ああ、もうこんな時間。さあ、はやく」
 僕はきっとともよちゃんには敵わないんだ。そう思って、僕は部屋に上がった。ともよちゃんの待っていた部屋に。
 
 
 
 翌朝。食卓についた僕の前に、ともよちゃんの手で梅干入りの熱い番茶が淹れられた。