とんとんと、包丁の音が聞こえる。3月というのに、やけに朝は冷え込んだ。なにか、歌声が聞こえる。
 ああ。ともよちゃんの声だ。何かを歌っている。
 心地よいまどろみだった。今日は日曜日だ、だからのんびりと。そう思って、はっとした。むっくりとおきると、台所へ向かう。狭い台所ではともよちゃんが朝食の準備をしていた。
「あら、おはようございます」
 割烹着を着込んで。包丁を手にしたともよちゃんが振り向く。
 日常。わざわざ、格好から入るといって。和食を作るときには面倒な着物を着て、割烹着を着るともよちゃん。そうしたかたくななところのある彼女との、ちょっと変わった日常だった。
「その、君は病人なんだし、あの」
「あら、わたくしにさせてくださいな。ずっと病院で退屈でしたもの。こうしてお料理を作れることの幸せを、かみしめさせてくださいましな」
 にっこり笑うと、彼女は背を向けて、包丁で味噌汁の具を切り始めた。鼻歌を歌う。なんだろう、賛美歌だろうか。ああ、教養がない自分が恨めしい。



 
 

 身もたまも 主にささげ 
 みこころに 委ねまつらなん
 世にあるも 世をさるも 
 とこしえに み手に頼らなん 
 主のもとに ゆく日まで 
 いときよく まもらせたまえ

 
 




 
「うふふ」
 歌い終わったともよちゃんがくすり、とわらう。
「この服で、歌う歌ではありませんね」
「ああ、でもきれいな声だね、相変わらず」
 歌のことは良くわからなかったが、ともよちゃんの歌声にはいつも聞き惚れてしまう。
 まあ、お上手ですこと、などと。彼女はあくまで控えめで。
「あまり、朝から歌う歌ではありませんでしたね。でも、何でわたくしこんな歌を歌ってしまったんでしょう」
 本気で首を傾げている。ああ畜生。もう何でも良いよ、可愛いから。
「あ、あのだね、ともよ姫。いやともよ神。いやその、ナイアルラホトテップというか。旧支配者。いや」
 僕は明らかに動揺していた。だって割烹着を着たともよちゃんが今そこに小首を傾げて。落ち着け僕。
「と、とにかく。疲れないようにね」
「ええ。むしろその、元気が溢れる様で。じっとしていられませんの」
「それは良かった。うん。本当に」
 ああ、そうだ。体が悪いわけではないのだから。元気なのだ。良いことだ。

 

 ごはん。味噌汁。具は豆腐と大根と。鯵の開きはきっちり火は通っていて焼けすぎず。
「私がいないときは、いったいどんなものを召し上がってらっしゃいましたの?」
 ともよちゃんが聞いてくる。ああ。朝の会話。
「いや、普通に食べてたよ、いろいろと」
「うふふ、嘘ですわ。冷蔵庫の中が空でしたもの。そんなことだろうと思って昨日材料を買っておいたから良いようなものの」
「ごめんなさい」
「あら、あやまるようなことでは。でも、本当にどんな食事を」
「ええと、シーチキンの缶詰とか、ささみに塩胡椒して焼いたり、ゆで卵の白身とか。プロテイン牛乳割りとか」
 ともよちゃんがあきれたように吐息する。
「思ったとおりですわ。たんぱく質しかとってない。味も素っ気も」
「いや、これがね。たんぱく質というのはとった先から筋肉になるような気がして。以外においしいんだよ」
「いけませんわ」
 ともよちゃんがまゆを吊り上げる。
「とにかく、わたくしが退院したら、きちんとしたものを作って差し上げます。何事も偏りすぎてはいけないんですの。その食事では、疲れやすいでしょう?」
「うーん、どうだろう」
 そういえば、そんな気もする。
「炭水化物も脂質も、必要なものなんですの。むやみにたんぱく質だけとれば良いという物ではありませんわ。野菜だって」
「あ、それは大丈夫」
 ビタミンのサプリメントの小瓶を取り出した。
「もう!」
 ああ、ともよちゃんが怒っている。
 (反則)
 心の中でつぶやいた。
 (反則だ)(怒った顔も)(かわいいのは)(反則)
「なにが反則なのです?」
 聞こえていた。
「ともよちゃん…まさか、心が読める家政婦さん?」
「は?…いいえ、ぶつぶつと何かおっしゃってましたので。とにかく、野菜もちゃんと食べてくださいな」
 どうやら、声に出ていたらしい。ああ、ともよちゃんが超能力者でなくて良かった。もし心を読まれていたら今頃。いや、とっくの昔にえらいことに。
 
 
 
 
 朝食後、阪急電車で京都へ出かける。何をするでもない、どこへ行くでもないのだが。病院の中に閉じ込められていた彼女には見るもの全てが新鮮なようだった。すこしそう状態にあるのではないかと思うくらいにともよちゃんははしゃいだ。
 ああ、もう大丈夫なのだと。凶事は去ったのだと。青空が晴れ上がるように、今、ともよちゃんは立ち直ったのだ。街中でなければ、その嬉しさで泣いていたかもしれない。僕はなんだか涙もろくなってしまったようだ。
 
 
 楽しい時間はあっという間に過ぎてしまった。夕方、ともよちゃんを病院まで送っていく。
「今日からは、開放病棟ですの。ですから、いつでもお会いできますわ」
 ともよちゃんがすこし弾んだ声で言う。
「うん。毎日、会いに行くよ」
「でもお仕事が」
「サボりサボり。どうせばれないから」
「まあ」
 声が弾んでいるのは僕も一緒だった。もう手紙を交わすこともないかもしれない。だって、必要なことは言葉で伝えられるから。それに、もっとこころの深いところで、分かり合えたような気がする。ずいぶん長いこと会っていなかったのに。いや、むしろそのことが僕たちの距離を近くしたのかもしれない。
 あっという間に病院についてしまった。いつでも会えるとわかっていても、名残惜しいものだ。駐車場から入り口へ向かう道すがら、ともよちゃんが言う。
「今日から、電話だって使えますの。ですから、いつでも連絡できますわ」
「あ、そうなんだ。じゃ、今晩…」
「いいえ」
 にっこり笑うともよちゃん。
「わたくしからお電話を差し上げます」
 考えることは、同じだった。
 
 
 病院の入り口に入るとき、なにか違和感を感じた。狭いロビーに、青い制服を着た警官がふたりいた。中年の警官と、若い警官。なにやら受け付けの人と話している。と、無線機で何かをやり取りすると、中へ入っていった。
「あの、なにかあったんですか?」
 受付の人に訊いてみる。しかしいつも感じのいいその女性は、ちらと僕の横のともよちゃんを見やって固い表情になり、
「いえ、その。たいしたことでは」
 と、言葉尻を濁した。
 ともよちゃんが今夜からまた世話になるというのに、物騒なようでは困る。そう思って語気が荒くなる。
「たいしたことって」
「あの、いいんです」
 ともよちゃんに諌められる。
「大丈夫ですわ。そうですわね」
 受付の人はええ、と返事をした。相変わらず、どことなく硬い返事だった。不安を感じたが、ともよちゃんがもし何かあったら携帯でお電話差し上げます、というので引き下がった。
 病室までついていこうという僕の申し出をともよちゃんは断った。すぐそこの事務室に立ち寄らなければならないそうだ。取りあえずロビーから廊下に出るところまでは一緒に行った。
「大丈夫ですわ。それより」
 ともよちゃんが急に声をひそめる。
「手紙にもお書きしましたけれども、わたくし、本当の気持ちを、あなたに」
 え。あっけにとられる。そういえば、そんなことをこの間の手紙に。とても茶化せるような雰囲気ではなかった。
「あの」
「うふふ、退院したら、きっとですわ。そのときに」
 飛び切りの笑顔で。彼女はそういうと、では、と頭を下げて、廊下の奥へと消えていった。
 ああ。すこし時間がたってから、どきどきしてくる。
 本当の。気持ち?いったい。
 僕は、何かを期待しているのか。馬鹿な。いったい何を。心が乱れた。

 
 
 
 
 
 
 午後10時。電話が鳴る。意外と遅かった。2コールで電話を取った。
「もしもし?」
「――」
 返事がない。
「ともよちゃんだよね?あれ、聞こえてる?」
 電波が悪いのか。電話機のディスプレイはともよちゃんに渡してある携帯電話の番号を表示していた。
「おーい」
「きこえて、ますわ」
 なんだ。急に、嫌な予感がした。ともよちゃんの声を聞いてこんな気持ちになるなんて。ついさっきまで、考えもしなかったことだ。その嫌な予感を振り払うために、つとめて明るく言う。
「どうしたの?もう寂しくなったのかなあ?しょうがないなあ、子供みたいに」
「ごめんなさい…」
 あ。駄目だ。本当に、酷く落ち込んでいる。なんだって。
「何か、あった?」
 沈黙。
「どうしたの?もしかして」
 昼間の警察が。なにか、モノでもとられたりしたのか。いろいろと悪い予感が僕の体内を走る。
「もしもし?」
「――はい」
 ああ、よかった。返事がある。とはいえ、どうしたものか。途方にくれていると、ともよちゃんのほうから話し始めてくれた。
「あの・・・利佳ちゃんの話を、しましたわ、ね」
「え?あ、うん」
 ともよちゃんと似た歳格好の少女。少し心を病んでいて。そうして、病室から、恐ろしげな表情で見下ろしていた――。
 一瞬、ぞわりと。背筋に悪寒が走った。あの表情。恐ろしく、そして冷たいあの少女の貌。
「その、佐々木さんが、あ、いや。利佳ちゃんが、なにか」
 とてつもなく。半ば自分でも予期している。きっとともよちゃんは口に出来まい。ならばいっそ僕のほうからはなそうか。ほんの一瞬で、そこまで考えた。しかし、ともよちゃんは。
 
 あっさりと。
 
「利佳ちゃんは、」
 
 事実だけを。
 
「死にました」
 
 言った。
 
 それからのともよちゃんは、なにか糸の切れた人形のように。あらかじめ吹き込んでおいたテープを再生するかのように。話を続けた。
「自殺でした。服をつなげて、結んで、ひも状にして。今朝早く、ちょうど私たちが朝食を取っている頃です―首を吊ったんだそうです。彼女の足元に遺書が3通あったそうです。一通は、ご両親に。一通は」
 すこし、息を呑む気配。僕は何もいえない。
「寺田という方宛だったそうです。そうしてもう一通は、わたくし」
 かさり、と紙がこすれる音がした。
「いい、読まなくて」
 遺書なんて。今のともよちゃんが読んで良い訳がない。
「うちに帰ってから、一緒に読もう。そのほうがいい」
「もう何度も読みました」
 無機質な声。ああ、どうしてそんな冷たい声で。
 喪失感。虚無。僕から何かが奪われたのだ。それも恐ろしく理不尽な方法で。
「わたくしは」
 すこし声が詰まる。
「人殺しだそうです。そう書いてあります」
「うそだ!」
 ほぼ反射的に言った。
「ともよちゃんが人殺しなわけがない。何を書いているんだ、彼女は!」
 自分の死をともよちゃんのせいだというのか。そうして、生きていく人間を傷つけて、しにゆくことへの慰めにしようと。愚かな、そんなことにともよちゃんを巻き込ませるものか。
 しかしともよちゃんは、僕が激昂したことで返って落ち着いたようだった。
「でも、わたくしが殺した、という方のお名前に、聞き覚えがありますの。ですから、きっとそうなんです。ああ、そう。わたくしはずっとお慕い申し上げておりました。その方を」
 馬鹿な。そう言おうとした。しかし、頭ごなしに否定することは出来なかった。僕がともよちゃんの何を知っているというのだ。
 急にともよちゃんがわっ、と泣き出した。ああ。ともよちゃんが泣いている。けれど、あまりにもとっぴな話しすぎて、慰める言葉もかけることが出来ない。
「馬鹿なことを」
 とにかく、話しかけないと。
「なにを、馬鹿な。君がいったい誰を殺したというんだ。嘘だ。絶対に嘘だ。僕が保障するから、さあ、泣き止んで。その」
 僕の言葉をともよちゃんがさえぎった。
「さくらちゃんを」
「え?」
 なんだ?
 さくら?
 あの、春に花をつける木?
 
 
 
 わたしは、殺しました。
 
「嘘だ。そんなの」
 
 きのもと、さくらという女の子を
 
「駄目だよ。信じない」
 
 嫉妬に狂って
 
「でまかせだ」
 
 
 
 わたしが、

 
 
 
       さくらちゃんを、
 
 
 
 
                 殺したんです。
 
 
 




 
「―――――――」
  
 電話が、切れた。
「ともよちゃん!」
 我に返ってブルゾンを引っつかむと、車のキーをポケットに入れて外へ出た。勿論、ともよちゃんのところへ向かうために。
 何に憤っているのか。無性に腹が立って。落ち着いて。そう、落ち着かなくては。ともよちゃんにはやさしくしなければならないんだ。病院まで、およそ車で30分。そのあいだに何とか気を静めよう。マンションのエレベーターで、一階へのボタンがなかなか押せなかった。
 僕の指は、酷く震えていた。