土曜日。このところ乗っていなかった車を出して、ともよちゃんを迎えにいった。
 郊外に病院はある。駅やその周りの繁華街からは少し離れていて、山に近く環境はいい。あまり精神病院のようには見えない。なにか、公営の施設のように見える。個人医院のような狭いエントランスで係りの人に来意を伝えると、少々お待ちください、と言って内線電話をとった。感じのいい人だった。
 数分後。ともよちゃんは暖かそうなコートをはおって、なにやら照れくさそうに歩いてきた。看護婦さんに付き添われている。
「なにかあったら、こちらまで連絡を。それから、お薬は――」
 ともよちゃんとふたり並んで、神妙に諸注意を受けた。なんだかボクシングの試合の前にレフェリーから注意を受けているみたいだ、などとわけのわからないことを思い浮かべる。僕は上の空で、ともよちゃんのことをちらちらと見ていた。ともよちゃんは背が低くて、豊かな黒髪に覆われた頭と、かたちのいい鼻が見えるだけだった。
 でも。ともよちゃんが、そこにいる。手を伸ばせば、すぐそこに。
 この間の面会のときは、場所柄少し落ち着かなくて、妙にそわそわしてしまった。今日、明日とともよちゃんと過ごせるということが本当に嬉しくて。
「あの、よろしいですか」
 看護婦さんに言われて我に返った。
「あ、ええ。あの」
 しどろもどろになると、
「お世話をおかけします。日曜の夕方には戻りますので」
 ともよちゃんがきちんとあいさつして、そうして、にっこりと僕のほうを見て、わらった。
 
 ああ。なんていって、声をかけようか。いろいろ考えていたのに何も思い浮かばない。言葉にならない。そうして、ふたり病院を辞して、駐車場に向かう。
「ええと」
 並んで歩くともよちゃんに話しかけようとして、ふっとともよちゃんを見ると彼女もこちらを見ていた。目が合う。なんだか本当にこうしてふたりきりでいることを意識してしまうというのは、こう、おかしなことだ。彼女がいないこの2ヶ月あまりのあいだで、どうして、こんなふうになってしまったのか。自分の感情がおかしな方向へ行ってしまっている。
 なんなのだろうか、これは。
「――はい」
 澄んだ声。ともよちゃんの声。少しふっくらとした頬。白い肌。優しい瞳。
 僕はあわてて目を上に向ける。ちょうど裏口の駐車場、見上げると金網に覆われた病室の窓が見えた。
 金網。ああ、と少し気分が重たくなる。ともよちゃんも昨日まであそこに閉じ込められていたんだ。もっとも、この外泊が終われば開放へと移るので、閉じ込められることもなくなるのだけれど。
 そのとき。人影が見えた。ともよちゃんと同じくらいの少女だった。パジャマを着てこちらを見ている。金網越しだったが、なんだかすこし怒ったような形相をしているのが見て取れた。
 ショートカットの少女の顔だちは、可愛い少女のように思う。けれどもその表情は土台、可憐な少女のそれではなかった。ともよちゃんにはああした顔はできないだろう、根拠もなくそう思った。怒り、というより憎悪のこもった表情だった。
「あの、どうされました」
 ともよちゃんが僕が上を向きっぱなしだったのに気がついて、僕の視線の方向へ顔を向けた。なんとなくいやな感じがした。
 ともよちゃんに、知らない人とはいえああした表情を見せるのは、なんだかいけないような気がしたのだ。
「あ、利佳ちゃん!」
 え。ともよちゃんのすこし弾んだ声に僕は驚いて、笑顔になったともよちゃんの顔を見て、そうしてまた病室の窓を見た。
 すると。どうしたわけか、さっき見せていた恐ろしげな表情は消えうせて、にこやかに笑う本当にたおやかで愛らしい少女の顔があった。手などを振っている。僕がさっき見たのは幻だったのか。そう思った。
 まてよ。
「利佳…ちゃん?」
「ええ。あの、いつもお手紙に書いていた、彼女です」
「ああ、あの子が」
 建物の角を曲がって、見えなくなるまでともよちゃんと彼女は手を振り合っていた。佐々木利佳という少女がはじめに見せた表情は、僕の心にすこしわだかまりとして残った。
 
 
 
「さて、お姫様。どちらへ」
 恭しくともよちゃんに問いかける。くすくす、ともよちゃんが笑う。
「もう、相変わらずですわね。ええと、そのう―」
 ともよちゃんが口ごもる。
「すこし、お薬のせいかしら、眠たいんです。ですから」
「ああ、じゃあ、家に帰って一眠りする?」
「いいえ、そんな」
 彼女にしては珍しく、首を大きく振った。
「せっかくですもの。あなたの行きたいところへ、連れて行ってくださいな」
「でも、あの、無理は」
 今度は瞳をとじて、小さく首を振る。
「大丈夫です。ただ、歩いたりするのはつらいのですけれども。たんに、眠たいだけですから。それに、きっと、家にはこれからずっと。そう、あと一週間もすれば帰れますもの」
 うん。そうだね。
 言葉にならなかった。
 家。僕と、ともよちゃんの家。
ダッシュボード空けて」
「はい」
 ともよちゃんに頼んで、ダッシュボードの中の道路地図を取り出してもらう。
「ともよちゃん、何処か行きたいところはない?」
 ともよちゃんが頬に手を当てて考え込む。そのまま黙り込んでしまった。
「ええと、そうですわね、ええと」
「あ、いいいい。僕が決めよう」
 ともよちゃんは、僕の好きそうなところを気を使って考えようとするのだけれど、いつも決まって考え付かないのだ。そうして、彼女の行きたいところはというと、なかなか急には出てこない。いつもそうだった。
「あー、吉野の山奥に温泉があるんだねえ。ちょうどドライブがてら、行ってみよう」
「まあ、それは」
「あれ、嫌かな」
「いいえ、とても嬉しいんですの。今日は少し冷えますもの」
「今から行けば、お昼にはつくよ。行こうか」
 ともよちゃんがええ、と頷いた。
 
 
 以外に奈良の山奥は深い。吉野といってもまだ入り口で、このまま下北山や十津川まで、どんどん深山が続くのだ。天理までしか高速道路が延びていないので、あとは一般道を走るのだが、以外に混んでいる。あまり渋滞は好きではないのだが、ともよちゃんが助手席にいるとなると話は別だ。この間の面会では話しきれなかったことをどんどんと話す。
 入院生活は退屈だろうと思っていたのに、ともよちゃんはいろんなことを見聞きしてきていた。それに、ともよちゃんが入院するときにいろんな人の話を聞いて、いいところを探したのが良かったのか、院内は清潔で病院の人もやさしい人ばかりだったようだ。何より、こうしてともよちゃんが回復して出てきたのがいい証拠だった。
 そうして入院生活の話を聞いているうち、なんだか少しじんわりしてきて。
 2ヶ月。離れて暮らしていて、そうして。
「あの。もし、あの」
 ともよちゃんの声で我に返る。
「あの。もしかして、泣いてらっしゃるのですか?あの、なにか悲しいことでも?あの、私がいないあいだに」
 ああ、酷く心配させてしまった。
「違う違う。ちがうよ、ともよちゃん。その」
 何で僕は泣いてしまったんだろう。
 ああ、そうか。
「その。おめでとう。よくがんばったね」
 そうか。僕は、嬉しかったんだ。
 沈黙。そうして、やがて。
「あ…ありがとう、ござい…」
 今度はともよちゃんが俯いた。
「ああ、駄目だ!やめよう、ともよちゃん。今日は、いい日なんだよ、嬉しい日なんだ。あの、ほら、そうだ、なにかCDとかかけよう。明るい曲の」
 僕が適当にCDをぶち込む。
 
 
”♪からだ〜がでかくて 朴訥フェイス〜 みどり〜のジャージの〜”
 
 
 なぜ電気グルーヴのCDを取り出してしまったのか、わからない。でもそれを聞いて、ともよちゃんは笑ってくれた。
 
 こうして笑っている方が僕たちらしいと思う。ともよちゃんはつらい思いをしてきたのだ。これからはずっと笑っていてくれたら良い。

 

 
 東吉野にあった温泉は、最近良くある町営の公衆温泉で、浴槽も広くなかったがあまり込んでいるでもなく、快適だった。男湯には僕のほかに爺さんが一人。多分地元の人だろう。
 僕も基本的に長湯をするほうだけれど、ともよちゃんはもっと長い。大きな和室の休憩室があるので、あがったらそこで待ってると伝えておいた。
「ええ、その、すこし時間がかかると思いますのでゆっくりしていてくださいな」
 ともよちゃんはそんなことを言っていた。予想どうり、ともよちゃんより先に僕が出てしまったようだ。仕方がないので缶入りのウーロン茶を2本かって、広い畳部屋に入った。30畳くらいはあるだろうか、広い部屋だったが勿論一本はともよちゃんの分で、彼女はあまり冷たすぎると飲めないので少し早めに買っておいてあげてちょっとぬるくしてあげるのだ。
 時間がかかるのはわかっていたので、ポーチから文庫本を取り出す。ぱらぱらめくりながら、30分もたったろうか。ともよちゃんが休憩室に入ってきた。
「あのう、お待たせいたしました」
 ちょっと遠慮気味に。
「ううん、良いよ。そのう」
 まっている時間も楽しいものなんだよ。ともよちゃんなら。そんな軽口を叩こうとして。
 ああ。僕は心臓が高鳴った。陳腐な言い草だけれど、本当に心拍数があがったのは間違いない。
 ――綺麗だなあ。
 風呂上りで上気した肌や、少し湿り気を帯びた黒髪。本当に綺麗な髪。
「あの」
 僕は良くわからないことを言った。
「おかえり」
 ともよちゃんはすこし首をかしげた。でも、すぐに笑って。
「ええ。ただいま、ですわ」
 にっこり笑って言ってくれた。
 
 
「和室って、落ち着くね」
 ともよちゃんがたたみの継ぎ目をなぞっているのを見ながら言った。
「ええ。ほんとうに」
「ちゃんと、髪の毛、乾かした?湯冷めして風邪でも引いたら、僕が病院の人に怒られてしまう」
 ふふ。ともよちゃんはわらって、大丈夫です、と答えた。
 ふたり、並んで。何をするでもなく。
 窓の外には川が見えた。寒そうな風景だった。がらんとした部屋と、安物のテーブル。座布団が僕とともよちゃんの分、二つ出したきりで、あとは入り口の横に積み上げられている。
 車の中ではずいぶんと話したのに、なんだか話が出なくなった。
 ともよちゃんがそこにいるということ、それだけで僕はすっかり満たされてしまう。ともよちゃんは退屈だろうなあ、なんて思うのだけれども、なんだかこうして二人並んで、ともよちゃんの横顔をちらちらながめたり、息遣いを感じたりするだけで、本当に幸福になってしまう。
 ともよちゃんは買ってきたお茶に手をつけていなかった。
「あの、ともよちゃん」
 話しかける。
「これ、ともよちゃんの分…」
 と。かっくり。ともよちゃんの首がぼくの肩にもたれかかってきた。あわてて抱きとめる。
 ああ。
 くうくう、と、本当に静かな寝息を立てて。ともよちゃんは眠っていた。
「眠いって、言ってたものなあ。やっぱり、無理していたんだな」
 そっと、ともよちゃんの身体を倒す。頭の下に枕を入れてあげる。寝癖がついたらかわいそうなので、髪を整えてあげる。ともよちゃんはまるで目を覚ます気配がない。僕が着てきていた革ジャンを、そっとかけてあげた。
 ともよちゃんの寝顔は無防備で。ただ、僕のそばで安心して眠ってくれるというのは、嬉しい。
 ああ。僕はその顔をずっと眺めていた。
 
 
 ともよちゃんがおきたのは3時間後だった。目を覚ましたともよちゃんは凄く動揺して。
「ああ、わたくし、こんなに眠るつもりではありませんでしたのに」
 いいんだよ、いいんだ。ともよちゃんをなだめるのには時間がかかった。
「でも、もう帰るしかないねえ。遅くなってしまった」
「ごめんなさい」
「ああ、ちがうんだ、そんなつもりじゃ。僕も今日はのんびりしたかったんだし、さ」
 ともよちゃんをなだめるのに、また少し時間がかかった。
 やっと落ち着いたともよちゃんと、ロビーを出ようとすると、フロントのおばさんが
「ずいぶんよくお休みでしたね」
 などと声をかけてきた。ともよちゃんは赤面して。僕は苦笑いをして。
 
 

 帰り道、夕日を浴びて車を走らせた。
「ああ、わたくしたち」
 ともよちゃんが助手席で声を上げる。
「なに?」
「わすれていましたわ」
 なんだろう。さっきの温泉になにか置いてきてしまったのか
「何を?電話、かけてみようか?」
「いいえ、違いますの。お昼を食べていませんわ。その、わたくしはおなかは空いていませんけれども、あなたは」
 ああ、そういえばそうだった。ぜんぜん気にしていなかったけれど、言われたとたんにおなかが空いてきた。
「ああ、忘れてたなあ。そういえばおなかが空いてきた」
 何処かに寄っていこうか、という僕の申し出をともよちゃんは申し訳なさそうに断った。
「久しぶりですもの。家に帰って、何かお作りいたします」
「そんな。ともよちゃんはまだ入院中なんだよ。僕が作るよ」
「いいえ。どうか、おねがいします。だって」
 ともよちゃんは僕の方を見つめた。運転中だったけれど、気配でわかる。
「いつも、そうしていたじゃないですか――」
 ああ、そうだ。僕たちは、一刻も早く日常を取り戻さないと。ただ、いつもの日常に返るのだ。だから、ともよちゃんは。
 目の前の信号が赤になった。車を交差点でとめる。サイドブレーキを引いて、ともよちゃんを見た。すこし不安そうな顔をしている。ああ、早くその不安を払ってあげたい。どうか早く彼女を。
「うん。じゃあ、お言葉に甘えて」
 ともよちゃんが望むのだ。何の異論もない。
 ともよちゃんはぱあっ、と明るい顔になる。ああ、怒った顔も、すねた顔も。泣き顔さえ美しく。しかし笑顔にはかなわない。彼女の笑顔にはきっとこの世の何者もかなわない。
「ええ、ええ。お任せくださいな」
 とても嬉しそうに、ともよちゃんのかたちのよい唇が動いた。