尾瀬探訪

「ごめんねえ」
 東電小屋から山の鼻へ向かう木道の上を歩きながら僕は前を行く雪城さんに声を掛けた。すっかりしょげてしまった僕は彼女の目にどう写っただろう。彼女が腹を立てているわけがないことはよくわかっている。表情やしぐさを伺うまでもない。雪城さんは僕の不注意や不始末をとがめたりはしない。彼女が憤ったり激しい感情を見せるのは不正や不当な行為を目にしたときと、あと。
 すっかり廃人同様になってしまった俺を本気で叱ってくれたのも、雪城さんだけだった。
 とにかく、僕はこうして群馬山中の湿原上の木道で彼女の背後から頭を下げた。全く申し訳なかった。
「どうしてえ?」
 歩みを止めて振り返った雪城さんは、その振り返ったはずみですこし位置がずれてしまった麦わら帽の位置を直しながら首を傾げた。
「いや、だってさ」
 今日の尾瀬ときたら。
「こんな死の世界、というかさあ。お花が咲いてない時期だなんて、知らなかったんだよ」
 9月中旬の尾瀬はちょうど野花の開花の谷間の時期になっていて、ちょうど僕たちが歩いている尾瀬ヶ原には黄色い花がぽやぽやといくつか咲いているだけで、あとは一面の枯れかけた浮き草やらなんやら、そうした世界だったのだ。
「まあ。それはあなたのせいではないでしょう?それに」
 雪城さんは俺の手を取った。彼女の掌はすこし汗ばんでいたけれど、ちっとも嫌な感じじゃなかった。
「こんな広い空を見たの、私生まれて初めてかもしれない。ほら、あんなに空が青くて」
 僕は釣られて空を見上げた。実のところさっきまで木材運搬のヘリがひっきりなしに飛んでいて、その爆音が僕の”やっちまった”感をさらに引き立てていたのだが。
「ね」
 そういうと雪城さんは笑ってくれた。
「それに、こんなに人気のない尾瀬なんて、そうそう歩けるものではないのでしょう?」
「うん。多分…そうだね」
 ときおり他の観光客とすれ違うが、日が傾きつつある今はそ機会も減っている。
「もう、駄目ね。元気出して!」
 雪城さんは大きな声でいうと、僕の手を引っ張って歩き出した。
「ああ、そうか」
 僕は独り言のつもりで言ったのだけれど、雪城さんには聞こえていたことだろう。
「少なくとも、雪城さんと一緒に居られる僕は幸福だなあ」
「あした」
 多分聞こえない振りの雪城さん。
「明日になったら、急にお花が咲き乱れたりしてね?」
「まさかあ」
 
 
 朝露に濡れたエゾリンドウが紫色の花を開かせたのは、次の日のことだった。