第五日        愛(2)

 僕はその海をよく覚えていなかった。だから海のほうへ行くわき道の全てに立ち寄り、丹念に調べた。
 観光地を外れた県道は海岸に従いうねり、断崖にあってはまるで引っかき傷のような道筋で先に続いていた。僕はまるで低速域のなっていないバイクを走らせ、少しずつ北上していった。
 荷物満載の、しかも2人乗りのバイクなど珍しいに違いない、たいていのわき道は小さな漁村へ続く道だったが時々大きな集落などでは人影もあって、僕たちが通り過ぎるのを立ち止まって眺めたりもした。
 たいていの人影は老人のそれだった。きっとこんな音のうるさいバイクなど暴走族かなにかと勘違いしているに違いない。
 そのバイクが集落の”どんつき”まで行って引き返してくるのだから、あやしさも倍増と言ったところで。なんともいえぬ居心地の悪さを感じたりもした。雪城さんもすこしそうしたものを感じたようで、2回目に人とすれ違ったときなどは一生懸命会釈を繰り返し、そのたびに僕のヘルメットの後頭部に頭突きをくらわしたりした。
  道はどんどん細くなった。台風の被害で通行止めのところがあるかもとか、ガソリンが足りなくなるとか言う不安が強く僕のこころを支配したところで。
 
 
 唐突に――僕たちの旅は、終わった。
 
 
 そこはごくありふれた行き止まりの一本道だった。途中に廃屋の集まりが3棟あっただけで、その寂れた風景が明るい日差しの下に有ることにめまいを感じるような錯綜した陶酔を覚えたあと、急に視界が開けた。
 崖というほどのものではない。わずか5メートルほどの高台。そこから開けた光景は、無論都会には無い美しさを持っているとはいえ、このあたりにあってはあまりにも凡庸な入江の砂浜だった。右手から正面にかけて、水量は多くないがやや広い河が海へと流れ込んでいるだけで。あとは一抱えあるくらいの入江。
 しかし僕はここからの眺めをよく覚えていた。
「何てこと無かったなあ」
 僕がバイクのエンジンを切って突然話し掛けたものだから、雪城さんは反応できず黙ってしまった。勿論返事を期待したわけじゃない。
「ここなら、多分―北のほうからくれば30分とかからない。ずいぶん無駄足をしてしまった」
「それは―そうだけれど、でも」
 雪城さんが笑う。
「それを言ったら、はじまらない」
「そうだね」
 しばらく呆けていたが、気を取り直してバイクを降りる。雪城さんの手をとって崖状になっている斜面を降りた。砂を踏みしめて歩いてゆくと海だった。波打ち際の風景にも見覚えがあった。
「うん。ここだ、ここ。間違いない」
 また独り言みたいに言った。雪城さんは今度も何も言わなかった。
「不思議だな。北海道や離島、海外へ行ったときも、こんな風に感じなかったのに」
「ここからは人工物が見えないわ。少し端に行けばさっきの家や道路は見えるけれど」
 目を閉じて耳元に手をやる雪城さん。
「ほら、こうしていると、波の音しか聞こえない。静かで、素敵なところよ」
 そうだね、簡潔に答えた僕はまだ釈然としなかった。
プーケットやサムイあたりに行けば、一日1000円とかでチャーターした小船で綺麗な誰もいないところへ連れて行ってもらって好きなだけ泳げたし、もっと透明度が高くていかにも南国って言う感じだった。国内だって、いくらでも」
「そういう問題では、無いのでしょうね」
 多分、そうだ。そういうことだ。
「あなたが見せたかった海は、ここなのでしょう?」
「僕が見たかった海がここだった。それは間違いない」
 
 しばらく一緒に波の音を聞いた。雪城さんは少し腰を曲げると靴と靴下を脱いで素足になった。靴の上に置いた白い小さな足を砂の上に乗せる。
「あつっ…」
 そういいながらそろそろと彼女は足の砂に対する接地圧を高めていって、やがて力を抜いた。
「ふふ。良い気持ち」
 いつものような正直な、まっすぐな笑顔を僕に向けると波打ち際に向かって歩いていった。
「ねーえ、どうして、ここ、海水浴場になってないのかしら」
「分からない。急に深くなっているとか、意外に潮の流れが速いとか」
 トテトテ、とすこしおぼつかない足取りで雪城さんが波打ち際まで歩いていった。波の掛かる、ほんの際まで行くと彼女はジーンズのすそを膝までまくった。少し大きめのジャケットのジッパーを開くと袖を腰のあたりに巻く。
「なんだか雪城さんががさつな女になったみたいだ」
 思わず声に出してしまった。こっちを振り向いた雪城さんは笑っていた。
「がさつかどうかは知りませんけど!」
 声は怒っていたが。
「あなたは、私を一体なんだと思っているんです」
「きっともっとおしとやかな格好が似合うんだと思ってさ。こう、ほら、帽子なんかを被って」
「また、白いワンピースとか言うの?」
 う。先に言われてしまった。
「あなたは私、と言うか女性に対して何かよこしまな感情とか、手前勝手な夢とか抱いていません?私だってこんな風にしてみたい…」
「違うぞ」
 ちょっと真剣に言った。大切なことだった。雪城さんは僕の言葉を待っている。
ジーンズに、Tシャツ姿の君もとても綺麗だ。きっとそこらの小金持ちのお嬢様なんかかなわないくらいに」
「相変わらず、女性を蔑視したような発言ね」
「思ったことを口にしただけだ。こんな奴が嫌ならとっとと愛想をつかしてくれよ。それに誉めているんだから」
 今度は雪城さんが僕の言葉を遮った。
「嬉しい」
 そう言うとまるで子供みたいに寄せる波に悲鳴をあげた。
「ここで一緒に海に入って水の掛け合いでもやれば、泥沼だろうな」
 雪城さんは彼女の言葉どうり嬉しそうにわらった。まあ、泥沼であっても誰も見ていないし構うものかと言う気持ちもあったが。
 
 座り込んで、ほんの少し視野が低くなる。
 せめて、写真でも、と思ってウエストポーチを探った。ほとんど使わなかったカメラがあった。安物のデジタルカメラだ。
「あら、写真撮るの?」
 そういえば、彼女は僕がカメラを構えたところをほとんど見ていないのではないだろうか。そうだ、最初はどうせこの世が終わるのなら記録を残す必要もあるまい、そう思っていたのだ。
 その未来は変わらないのに。
 雪城さんが上半身だけ捻ってこちらを向いた。振り返った彼女はまるで天使のように美しかった。僕は慎重にファインダーを覗き込んで、レンズの中に彼女を捕らえる。
 そのとき。
 出し抜けに。
 疑問が解けた。
 
 パシャ、という白々しい電子音がして、彼女の姿をメモリに焼き付けたあと。僕は愕然として彼女に言った。
「解った」
「え」
 すれ違う会話。お互いをわかったつもりでも、やはり僕たちは違う肉体に魂を宿す”他人”なのだ。そう、”他人”。それがすべてだった。
 
「僕がこの海を君に見せたかった―いや、僕が見たかった理由だ」
 少し大きな波が寄せて、雪城さんの腰のあたりまでざんぶ、と潮をかけた。それでも雪城さんは気をそらせず、僕の告白を聞いていた。
「誰もいなかった」
「……誰も?」
「そうだ。誰もいなかった。旅の空のしたには、誰もいなかった。人から逃れ、責任から逃れ、全てから逃げ出したあとの空の下には誰もいなかったんだ。それが僕の根源だったんだ」
「難しい話?」
「簡単だ。僕が初めてツーリングに出たのは九州だった。志布志でフェリーを降りて。ぐるっとこっちへ廻ってきて。そうして感動したのが」
「この海だったの?」
 うん。僕は頷いて、そうして海を眺めた。そうだ、解ってしまえば懐かしい。そうして寂しい思い出がちくりと僕の胸を刺して―そうして、今の自分の幸福さにめまいがする。
「人に疲れていたんだ。人の中で暮らすことに疲れて、それは本当に本当につらくて。だから人のいないところを目指した。大学生のころさ。身の丈に会わない人付き合いやらなんやら。僕は弱すぎて、社会へ出る前に磨耗し尽くしたんだ。それで」
「誰もいないところを目指した」
「うん。きっと無意識だったと思う。周りにはただのツーリングだと言ってあったし」
 雪城さんはサブサブと膝のあたりをぬらしながら、僕の話しを黙って聞いてくれた。
「そうして、そうだ、一旦宮崎側へでて、そうして観光地っぽさに辟易して、大隈のほうへ下ってきたんだよ。雨が降っていた。そう、雨が降っていたんだ。夏で、暖かい雨だった。雨宿りのできるところを探して入り込んで、ここに出くわした。いまなら、ありふれた、なんて思うのかもしれない。けれどあのときの僕にはあまりにも新鮮だった。誰もいない海。誰も僕を責めない場所。雨が上がって、気まぐれな天気が雲を吹き飛ばして、そうしてこの場所がとても素晴らしいと感じていたんだ。何者にも換えがたいほどに。
インプリンティング、かしら」
「そうだと思う。でも、僕が魅力を感じたのはプリミティブなものじゃなかった。ただただ、癒されたかっただけさ.でもそれは果たされなかった。誰もいないところへ行けば癒されると、そればかりを望んで、そうして」
「疲れたのね」
 少し冷たく感じるくらい雪城さんは落ち着いている。
「そうだ。あまりにも、、むなしかった。孤独な世界はあまりにも寂しかった。でも、でも、でも」
 雪城さんに駆け寄る.僕のズボンも靴も水浸しになるが、構うものか。
「この土壇場で。世界の終わりに。君がいてくれるなんて。誰もいない景色の中に君が―」
「違うわ」
 優しい幼稚園の先生。教会のシスター。そんなような表情、声色で否定の言葉を放つ雪城さん.
「景色の中にいるのは私と、あなたよ」
 そのとき僕はくらい闇だったこの世界から光り輝く真白い高貴な天使が燦然と僕の前に現れたのを感じた。僕は叫んだ。
「僕は一人じゃない!だから、何処にいても寂しくない!」
 雪城さんの元へ、燦然と輝く彼女の元へ。駆け寄る.
「世界が終わっても。僕たちは近くにいた。そのことは、ゼロには、ならない!」
 
 嵐のような、そうしてあまりにも手前勝手な告白のあと。 
 いきおいあまった僕は―雪城さんを押し倒す格好で、海の中へ飛び込んだ。ふたり、顔を上げるとびしょぬれだった。とりあえず上半身は出るくらいの水深だった。波は穏やかでまるでゆりかごに揺られているみたいで。
「君がいてくれた。あの時は寂しさにも気がつけないほどだったのに。今は君がいる。君がいなかったら、気が狂いそうだ」
「私も…」
 雪城さんが静かに言葉を紡ぐ。
「いつのまにか、あなたのお役に立ちたいとそればかりを。ジャアクキングに敗れてから、廃人になるしかなかった私が、最後まで人間らしく生きられたのはきっとあなたのおかげですから。だから」
 そこまで行って、急に恥ずかしくなって、お互いを抱き合った。頬がすべすべして心地よかった。小さくて、柔らかいからだ。すこし冷たい海水に、彼女の体温はありがたかった。
 お互い見つめあった。それはいささか白々しくて。雪城さんは少し笑った。
「キス、するの?」
「いやかい」
 彼女は答えなかった。僕は彼女の唇に自分の唇を重ねた。柔らかい感触。それはとても誠実な身体の接触だった。
 ああ。物足りない。もっと彼女を知りたい。いここにいる唯一の他人。燦然と輝いて僕の前に現れた天使.それが冒涜でないのなら。
 一度目は、すぐに離れた。そうして、雪城さんの瞳を一度見て。お互い目を閉じた。今度は雪城さんが顔を近づけてくる。水に使って、びちょびちょになりながら、けれど僕たちはこの行為になんの滑稽さも感じていなかった。
 唇がふれた。僕はずいぶん迷ったあと。僕の舌先を遠慮がちに雪城さんの口内に進めた。始め体ごと震えた雪城さんは、しかしその自体を冷静に受け止め、そうして僕を受け入れてくれた。
「ん。んっ…」
 雪城さんの声が聞こえた。最初は苦悶の声かとおもい、焦った。しかし違う種類の声だったことに安堵と、そしてなんともいえない満足感を得た。
 なるべく、乱暴にならないように彼女の口の中をかき混ぜる。歯の裏側や、彼女の舌自身に巻きつけてみたり。繊細な彼女を傷つけまいとそればかり考えていた。
 と。彼女の舌が僕の口の中に侵入してきた。お互いが混ざり合ってとけていくような感じで。彼女は僕の唇を必死になって吸っている。
 あ。
 雪城さんの理性が、飛んでいる。
 そのことがとても新鮮で、そうして官能的で。どうにかなってしまいそう。
 永遠に続くかと思ったキスは、僕が言葉を発したくなって中断した。
「唾液…欲しい」
 雪城さんは俯いている。顔が上気していた。
「君の唾液が欲しい…」
 そうして、もう一度口付けた。少しわいせつな水おとがする。と、遠慮がちに。彼女の口から粘った水分が運ばれてきて、僕の唇をぬらした。僕もお返しに彼女に唾液を送り込んだ。雪城さんはその量に面食らったのか。慌てた風だったけれども、のどを鳴らしてそれを飲み干した。
 僕の頭は熱く焼き付いていた。どうにかなってしまいそうだ。
 灼熱の氷のような熱い雪城さんの下を何度も僕は自分の舌で転がして、彼女の口内に送り返した。そのたび彼女も少しあ、あ、などとあられもない声をあげて。感じているのだろうか。それを聞くほど僕も馬鹿じゃないが。
 まさか、嫌がってはいないだろうな―
 そう思って少し薄目を開けて彼女の顔を見るとこころここにあらずという表情で。僕はそれを見て安心した。
 お互いが求め合って。
 他人でありながら、一つになろうと努力する。
 快楽を得ようと。寂しさを忘れようと。
 そう、この世界の唯一の他人、である雪城さんと一つになったとき。
 
 
 
 
 世界は、終わった。
  

 
 
  
 
  
 
  
  
 
  
 
  
 
  
 
  
 
 
 
  
 
 
  
 
  
 
  
 
 
 
  
 
  
 
 
  
 
 
 
 
 宮崎から大阪へ向かうフェリーは空いていた。雪城さんとおしゃべりしながら、神戸、着。高速で家に帰った。
 あれからぼくらが下した結論。即ち”最後の瞬間まで普通に暮らす”という決断を守るため。僕たちは大阪へ帰った。
 もう、分かり合えたから。何処にいても、一人ではないから。
 
 
 2日たって。僕は会社が休みなので遅く起きだした。テレビをつけるとカツゼツの悪い仮面ライダーが戦っていた。寝起きでぼんやりしていると雪城さんが
「行ってきます」
 制服に着替えて出かける。
「あ、まって」
 呼び止めて、朝のキスをして。
「―行ってらっしゃい」
 今日こそ、世界は滅ぶのか。何時なのだろう。どんな風に。
 ぼんやりしていた頭が覚醒する。
 ちょっと待て、今日は日曜だ。学校が有るわけ無いのに。
 間違えた?それもありえない。一週間休んだ雪城さんは先生にこっぴどく叱られ、しばらくきちんと授業を受けるといって何度も確認していた。
 じゃあ。
 なんだ?
 僕は学校に電話することにした。
 ベローネ学園。電話帳を探す。
 あれ?あれ?無い。
 不安がこころの中に広がった。
 104で探してもらう。
「そのお名前では、全国何処にも登録がございません」
 馬鹿な―不安はどす黒く僕の心を覆う。
「そうだ、病院!」
 雪城さんの友達が入院している病院。この町の精神病院はあそこしかない。
「あの、美墨なぎささんはそちらで」
「そのようなお名前のかたは、入院されていませんが」
 押し問答の末、電話を切った。
 おかしい。何かの間違いだろう。世界が終わる前に、確かめないと。ああ、もどかしい。こんな宙ぶらりんで世界の終わりを迎えるのは、嫌だ。

 僕は街中へ走り出した。
「雪城さん!雪城さん!」
 半ば半狂乱で、彼女の名を呼びながら。そのときちょうど9時半。家のテレビが、女児向けアニメを放送しだした。つけっぱなしだったことにかまってはいられない。陽気な音楽がいっそう僕を不安にさせた。
 とにかく、やるべきことを。僕は外に駆け出した。必死で走った。何処までも。

 
 
  
               (完)