2人だけの科学部(その15)
雪城さんがほっそりした指をくるくると回して、極太マジックのふたを取った。白衣をふわりとひるがえして黒板に向き直る。黒板には一面に大きな模造紙が貼られていた。
尿素硝酸塩の濾過、と縦書きされたところにぎゅっと音を立てて彼女はバッテンをつけた。
「雪城さんが作っているのは工芸品だよ」
僕は率直な感想を口にした。幾分疲労で青ざめた感のある雪城さんだったが、瞳は生き生きと輝いていた。
「そうね。爆縮レンズの計算なんて、ほんとう…」
おどけてとんとんと自分の肩を自分のげんこつで叩く雪城さん。
「理屈ではわかっていても、”智慧の書”がないととてもじゃないけど私の手にはおえなかったわ」
雪城さんの目的は終わりに近づきつつある。原爆とは、雪城さんいわく「原理は単純、構造は複雑」なものらしい。爆発の仕方にも非常に精密なタイミングが要求される。それが実際に起爆するかはやってみないとわからない。こればっかりは試し撃ちをするわけにもいかないのだ。
プルトニウムの精製自体は簡単に行えたらしい。事実、黒板に大きく張り出された模造紙の左寄り…すなわち初期の工程で、その作業を終えていた。結局は金属の精製なのだから、科学準備室に雪城さんが持ち込んだ機材を使えば容易いことだった。
一週間前。僕はそのとき初めて準備室の様子を見せてもらった。
「もう、隠す必要もないもの。私たちは」
雪城さんはそれだけ言うと、準備室の扉を開け放ったのだ。
はじめ見たときなにかの概視感にとらわれ、そうしてすぐに思い出す。
ああ、なんだか病院の、未熟児を隔離しておくような、そういう―。
内部には壁面に設置された大型の機材や工作機が置かれていて、そして中心にはその病院の隔離室のミニチュアのようなそれが鎮座していた。透明な板に被覆されており、そのまるでアクリル板のような壁には4箇所の穴が開いている。穴といっても、ぽっかりと開いているわけではないのだ。
そして内部にはこの間奪ってきたシリンダーと、ビーカー、試験管などが置いてある。
「この中は、これから地獄になるのよ」
「地獄…」
「ええ。冥界といっても良い。このちっぽけな囲いを取り外すだけで、下手をすれば人類が滅ぶかも」
雪城さんはさらりと言った。穴に手をすっぽり突っ込む。その穴からは頑丈そうなゴム手袋が伸びていて、雪城さんを内部から隔離しつつ作業することを可能にしていた。
雪城さんは淡々と。そう、実に淡々と作業を進める。
「ひっ…?」
思わず情けない声を上げてしまったのは、作業が始まってしばらくたってからだ。雪城さんがシリンダーのふたを回すと、ガリ、ガリというなにかを引っかくような音が聞こえた。それまで無言でいたので、急な物音には驚いてしまったのだ。
「ああ、ご免なさい」
雪城さんがそこですこし表情を和らげる。
「ガイガー・カウンターが反応したのね。大丈夫、これくらいならまるで人体に影響はないわ」
雪城さんはあごをしゃくって見せた。その先、ちょうど雪城さんの右腕が入っている下のちょっとした台座の棚にその計器は置かれていた。
放射能が、漏れているのだ…。
そのことに軽い戦慄を覚えたが、当の雪城さんは至極真剣で、さっきと変わらぬ雰囲気で作業を続けている。僕はハンカチを取り出して彼女の額の汗をぬぐってあげた。
「有難う」
表情を変えない雪城さん。
シリンダーの中からペレットを取り出す。一つ一つは小さな丸薬のような物質。それをビーカーに丁寧に数を数えてから入れてゆく。がりがりという、計器の耳障りな音は間歇的に続いていた。
と、今度は別のビーカーを持ち上げた。目盛りで中の液剤の量を確認する。
「それは?」
「濃硫酸」
簡単に答える雪城さん。勿論、何がどうなるのかなどわからない。僕はただ、彼女がプルトニウム239を精製するのを見守るだけなのだ。
慎重に、慎重にビーカーを傾け、ペレットの入ったもう一つのビーカーに濃硫酸を…
ガガガガガガガ!
急に計器が悲鳴を上げた。と同時にじょぼじょぼと濃硫酸がペレットに注ぎ込まれてゆく。僕は悲鳴を押し殺した。雪城さんが鋭い視線でガイガー・カウンターとビーカーを交互に見つめている。
やがて濃硫酸が注ぎ終えられる。
ガ、ガ、ガ。
計器の耳障りな音も元の間歇的なものへと戻った。
はーっ、と雪城さんが大きくため息をついて肩の力を抜いた。
「大丈夫よ」
すっかりたまげてしまって、放心状態の僕に彼女はやんわりと微笑んだ。
「いまので、ちょっとお医者さまで精密検査を受けたくらい。煩いのよね、この計器」
ビーカーの中では”なにか”が反応を起こしている。泡立ちがおさまり、上と下に”なにか”が分かれて行きつつあった。
「このまま24時間放置よ」
雪城さんは手を引き抜きながら言った。
24時間後、雪城さんはプルトニウムとウランの分離に成功した。