どうにも仕事に今ひとつ身が入らない。上司に言うと、
「いつものことだろ阿呆」
 と言われた。全く持ってその通りだったので何も言い返せなかった。上司や同僚に飲みに誘われるのだけど、断ってばかりいる。おまけに仕事ができていないようでは、ぞんざいに扱われるのも無理がないことだった。 
 トレーニングに行っていることは会社の人にも言ってあるので、あまり追求されるわけではない。むしろ会社のほうでも健康増進を奨励しているくらいだ。とはいえ時々冗談交じりに女でも出来たか、などと声をかけられることがあった。
 僕には、あいまいな返事をすることしか出来ない。
 僕はともよちゃんを愛している。全身全霊を傾けて愛している。けれど、それは”女が出来た”などといった野卑な言葉で語って欲しくないことだったし、なにより僕はともよちゃんをそうした目で見てはいない。
 たぶん、だけど。

 今日も仕事帰りにジムに寄った。今日は軽く平泳ぎで30分ほど、その後クロールで50メートル、こちらは全速で何本か、いけるところまで。かつて泉北の涼宮茜といわれたこの僕だけど、やっぱり未だ全開で泳ぐとすぐ息切れする。ちょっと不満が残ったけれど一時間ほどで切り上げた。
 
 家の前まで帰ってくる。僕の部屋には明かりがついている。家に帰ると、誰かが待っている。そのことがこんなに貴重なことだとは思わなかった。家族ではないのだけれど、とても大切な誰かが待ってくれている。
 ともよちゃんはいつか僕の元を去ると思う。僕もそのつもりで、すこしずつ心の準備をしていかなくちゃなあ、と思っている。彼女をいつまでも籠の中の鳥にしておくわけにはいかない。そのことはとても残酷で、でも確実なことだ。
 
「まあ、おかえりなさいませ」
 ともよちゃんはいつものように食事の用意をして待っていてくれた。とても綺麗な笑顔で、僕を迎えてくれた。
「今日もお疲れですのね」
 そのことが日常になっている。
「今日は何をしてきたんですの?」
 そのことが嬉しくて。
「とりあえず飲み物をお持ちしますね」
 そのことが嬉しくて。
「玄米を炊飯器で炊いてみましたの。うまく炊けましたかしら」
 そのことが嬉しくて。
「この間図書館で借りてきていただいた本なんですけど・・・」
 そのことが嬉しくて。
 そのことが嬉しくて。
 そのことが嬉しくて。
 
 
 
 そのことがすこし怖かった。