ミルフィーユの朝 -Awakenings-(その2)


 私の仕事は、あまり派手なものではない。社会的身分も低いと言われてしまう。こうして漫然と面白くもない単純労働をだらだらと続けなければならないのは、満足な教育を受けることが出来なかったからだ、などと。忸怩たる思いがある。
 人生を楽しいと感じたことはない。青春を謳歌し、若さを誇示するように通りを歩く若者たちの横を、肩をすぼめ、背を丸めて通り過ぎるだけだ。
 人生を楽しいと感じたことはない。意義のあることだと感じたことはない。ただ、生きているだけだ。時折自分の中に湧き上がる憎しみや苦しみに身もだえしながら。
 現場でいいようにこき使われる。家に帰って、泥のように眠る。昼過ぎ、目が覚めた。
 −昨日の少女に会えるだろうか。ミルフィーユといった。私はなにやら気持ちが昂揚してしまって、病院に行く身支度をしていた。自分の中にある感情がなんなのか、わからない。ただ、彼女に会いたかった。
 
 
 母の見舞いは、全くの口実だった。今日は母は起きていた。ただぼんやりと私のほうを見て、いつものように口をあけて、そうしてなにか呪いの言葉のようなものを呟くのだ。
 私には母にそうして疎んぜられる理由というのがよくわからない。ただ、幼いときからそう言い聞かされてきたので、自分がなにか不要な存在、呪わしい存在とつい最近まで信じ込んでいた。そうしてそれが単なる刷り込みに過ぎないと気がついても、自分の行き方を変えることは出来ないと感じていた。
「村田さんの、息子さん、ですか」
 母の病室を出ると、白衣を着たお医者さんが立っている。柔和な表情をした、およそ精神科医とは思えないたたずまいに驚いた。とりあえず一礼する。
「いつも母がお世話に―」
「いえ。私は新任で、つい一月前にこちらに呼ばれてきたんです。あなたのお母様の容態は、存じ上げないのです」
 正直な人だな、と思った。もっと尊大で、何でも知っている風に振舞うのが医者だとばかり思っていたのだが。丸い眼鏡のためか、年のころは40くらいのその医者は随分愛嬌のある顔をしていた。
「えと、では何の御用で」
「すこしお時間をいただけますか」
 私はすこし迷った。出来るなら食堂へ行きたかった。そうすればまたミルフィーユと会えるかもしれない。そう思った矢先、医者が言葉を繋いだ。
ミルフィーユ・桜葉さんの件で、お伺いしたいことがあるのです」
 いきなり彼女の名前が出たので私は驚いてしまった。
 
 
 
 
 
 私は薄暗い、その医者の私室に案内される。
「私はもともと研究者でして」
 ヴィデオ・デッキを操作し、テレビに配線しながらその医者は言う。斎賀、と名乗った。
「こうして患者に接するのは初めてなんです。驚きました。どの医師も積極的に何かを見つけようとしない。症状で”こうだ”と決め付けてしまうんです」
「先生、そんなことを」
 ずいぶんと正直な人だ。通常、患者の家族に言うべき言葉ではないだろう。研究者というのがいかに浮世離れしているのかよくわからる。が、不思議と悪い気はしない。態度や言葉の節々に誠意が感じられたのだ。
「さて、画面を見てください」
 車椅子に腰掛ける少女。その少女は、ミルフィーユだった。
「彼女です。ミルフィーユです」
 言われるまでもないことだが、斎賀が私に言う。画面の中のミルフィーユは身じろぎもせず、車椅子に座っている。
「このビデオ、一時停止になっていませんか?」
 まるで画面に変化がないので私は斎賀先生に尋ねた。しかし斎賀先生は首を横に振った。
「等速で再生中です。コレは彼女の半年前の様子です」
「そんな」
 昨日の様子とはまるで違う。一切表情がない。瞳は開いているものの、何処を見ているのか焦点が合っていない。車椅子に右半身を預けて、宙を見つめている。これが、あの魅力的な笑顔を見せてくれた、彼女なんて。
「嘘でしょう」
「本当です。彼女は10年の間この状態でした。原因はまったく不明です。勿論仮説はいくらでもありましたがね。脳炎の一種と考えられています。」
 画面の中で、看護士がミルフィーユにスケッチブックを持たせ鉛筆を握らせる。看護士が両手でがっちりとミルフィーユの両手を握りこむとミルフィーユはかろうじてその鉛筆を握ることが出来た。そして、スケッチブックに何かを書かせようとしたが、そうするとミルフィーユは鉛筆を取り落とした。そうして、また看護士が鉛筆を握らせる。また落とす。そうしたことが5回ほど繰り返された。
「酷い。まるで反応がない」
 私は思わず呟いた。斎賀先生も頷く。
「ええ。けれど、私がこちらに赴任して、そうしてパーキンソン病に効果のある新薬を投与しました。彼女の症状が、痙攣や筋強剛の一種であると考えたからです。痙攣のあまりの頻度の高さに硬直してしまっているのではないのかと。それならば、その新薬で痙攣と筋強剛を抑える効果が期待できるのかも、と。そして、その効果は予想以上でした」
 画面は切り替わった。今度のミルフィーユは車椅子に座っているものの、すこし様子が違う。
「コレは」
「投薬して一週間後のものです。表情が現れ、そして刺激に対する反射が見られます」
 画面の横からボールが投げられた。見事にミルフィーユがキャッチする。表情は無表情のままだが、的確にボールはミルフィーユの手のひらに収まった。後ろのほうで見守っていた看護婦、患者、医師などがどよめいているのも写っている。
 そして。
「こんにちわ。私は、目覚めました」
 また、画面が切り替わる。ああ、ミルフィーユだ。昨日あった少女だ。私は食い入るようにそのたたずまいを見た。モニタの中のミルフィーユが語る。
「10年間も眠っていたそうなんです。でも、目が覚めて。それで、いろんなことがとても新鮮です。ずっと眠っていたなんて。何ででしょう。どうして。私はいまとても気分がいいです。いま」
 時間を聞く。斎賀先生と思しき人が時間を告げる。
「いま、深夜です。けれど、私は起きています。そうして、また麻がやってくるんです。私は朝が来ると起きる。そのことがずっと出来ませんでした。嬉しいです。本当に嬉しい」
 いったん、斎賀先生はビデオを止めた。
「彼女は、目覚めました。こうまで回復するとは、自分でも予想外でした。しかし」
「先生」
 私は斎賀先生の言葉をさえぎった。
「しかしなぜ、私にこのようなものを見せたのですか」
 斎賀先生はすこし俯いて、ためらい、そして目をあわさずに言った。
「彼女は、あなたに大きな関心と好意を抱いています」
 ぽかんと。私はあっけにとられた。雑賀先生が続ける。
「昨日の問診では、あなたのことばかり話していました。本当に、驚きです。そうして、彼女ののなかの精神的なエネルギーがどんどん増幅しているのが伝わってきました」
「そんな」
「事実なんです。村田さん」
 雑賀先生は随分といいにくそうにして、しかしきちんと言った。
「時間さえおありなら、時々彼女に会ってあげてくれませんか。そうして、出来れば彼女の様子をよく見ておいてあげて欲しいのです。観察しろ、と申し上げるのではありません。ただ、10年の間だ眠りつづけ、夢の中で戦い続けたあの子のために、我々もできるだけのことをしてあげたいのです」
 この人は、医師向きではない。余計な骨を折るタイプだ。しかし、先生と呼ぶにふさわしい人物ではあると私は思った。