ゆきゆきてプリキュア(2)

 あさ、目覚めるとひとりだ。ベッドにはぬくもりも残っていない。

 雪城さんは夜中に帰ってしまう。どうも一緒に住んでいるおばあちゃんの目を盗んでうちに来ているらしい。困ったことだが、かといってぷっつりこなくなってしまうととても寂しいだろうなあ。
 南沙諸島動乱にさいして派遣された大型護衛艦”やまと”の乗組員として派遣された私はそこで最悪の体験をした。世間にはよく知られている通り2000年、横須賀でモスボール保管されていたその史上最大の旧帝国海軍戦艦は現役復帰を果たした。しかしトンキン湾で作戦行動中に中国海軍の潜水艦が気まぐれに放った、たった二本のシュクヴァル長魚雷であっけなく7万トンの巨体は海中に没した。辛くも海上に投げ出され私は九死に一生をのだが、やっとの思いで陸に泳ぎ着くと現地のゲリラに駆り立てられる毎日となった。数ヵ月後救出された私は完全に放心状態で、まさに生ける屍となって後送されてしまったのだ。
 やまと沈没時には100人程度の生存者が陸に上がったそうだが、生き残ったのは私だけだという。私自身何人もの同僚を見殺しにしたり囮にしたり、それからそれから。俺は。飢えて。○○を…××××××…。殺して○○…。それから…。×××
 ああ。またおかしくなりそうだ。あわててレボトミンをコップの水で流し込む。
 
 
 傷病者年金の受け取りの手続きに役所へ行く。役所の連中は相変わらず冷たい。俺は誰のためにこんな目あって。ああ。
 
 
 公園の周りをぐるぐる廻っていると夜になった。いったい何時間俺は公園の回りにいたのか。きっとはたから見るとキチガイにしか見えないんだろうなあ。帰ろう。
 
 ビー。安物のドアのブザーがなる。
「こんばんわ」
 また、雪城さんの声だ。またうちに遊びにきたのか。困ったことだ。
 無言で、玄関の扉を開ける。
「今日は寒くて、驚きました。そもそもこの時期に冷え込むのはシベリア寒気団が…」
 玄関でなにか難しい話を始めた。
「雪城さん、その」
 もう、俺にはかかわらないで欲しい。君のあかるくまっすぐな笑顔は俺にはつらすぎる。
「俺はね、もう、3年位前になるけれど」
 雪城さんの笑顔が、すこし引き攣ったように。とまる。彼女の表情が。思考が。
「ええ、知っています。ご苦労をなさったのでしょう?」
 違うんだよ。苦労?そんな、美しいものではない。
「俺は軍隊にいた。随分人を殺した。はじめは相手の顔の見えないところからね。多分俺が運んだ弾で何百人とか死んでたんだと思う」
「入れてください。ああ、また空気も入れ替えずに」
 話を聞こうともしない雪城さん。ああ、いつもこうして、結局は。
「軽蔑しなよ。俺は、俺は」
 さすがに自分でも躊躇する。そんな恐ろしいことをこの優しく無垢な少女にわざわざ教えるということ。そんな恐ろしいことを人間がするということを、この少女が知ってしまうこと。ああ。
「俺は…人を喰った。死んだから喰ったんじゃない。最初はそうだった。でもやがて味方を襲って喰った」
「お湯を、沸かして。それで…コーヒーがよろしいですか」
 雪城さんが言葉に詰まる。顔が真っ青で。ああ、瞳が潤んでいる。
 お願いだ、今度こそ俺のことを嫌いになって。もう見切りを付けて。こいつは駄目なんだって。そうすれば俺は。
「味方がいなくなると、今度はゲリラの村を襲った。狙うのは必ず女子供だ。動きがのろいからな。そいつらも喰ってやったよ。ああ、犯して殺したこともあったな。いや、殺してから犯したんだったかな。まあどっちでもいいか。雪城さんくらいの女の子も犯したり殺したりしたよ」
「緊急避難」
 雪城さんがぽつりと言う。玄関先で悄然と立ち尽くす彼女は、目が真っ赤で。悲痛で。
 そして、美しかった。
「日本の刑法でも認められています。そうしなければあなたが生きられなかった」
 俺は首を振った。
「ちがうね。何故なら俺は−−」
 楽しかったんだ、そういおうとして言葉をさえぎられた。ものすごい剣幕の雪城さんの怒声で。
「そうやって自分の価値を貶めて、蔑まれて、それで楽になろうなんて間違っているわ!ええ、あなたは私が目障りなんでしょう?うっとうしいんでしょう?でも貴方は私を殺したりしないじゃない!私は動きがのろいわ。文系だし、女子供ですもの。簡単に殺せるわ!さあ、殺して御覧なさい」
 馬鹿なことを。ああ、結局。
「そんなことで楽になれると思ったら大間違いです!貴方はこうして、生きのびたんですから、せめて生きないと。なんのために苦労なさったのですか!」
 俺はこうして諌められるんだ。髪を振り乱し、叫ぶ彼女はもはや幻想的で。
 俺は人喰いのきちがいだ。幼児をレイプした変質者だ。それなのに彼女はなぜ俺を嫌悪しない。
 激情が流れ去った後、小声で雪城さんが呟く。
「すべて…ドツクゾーンのせいで…」
「ドツク…なに?」
 雪城さんは涙を振り払うように首を振る。
「貴方のせいだけではないの。お願いだから」
 ああ。今日も、嫌ってもらえなかった。これで、また暫くは生きていかなくてはならない。他人に生きることを望まれているのは、不思議な感覚だった。
 なぜ雪城さんは俺が気持ち悪くないのだろう。
 結局雪城さんを部屋に招きいれた。2時間くらいギクシャクした会話が続いたが、やがていつものように笑顔で彼女は話し始めた。今日、友達が出来たらしい。彼女は不器用で、友達を作るのが苦手だったのだ。その彼女の友達としては活発な新しい友達のことを、嬉々として語る雪城さんは本当に幸せそうだった。
「よかったね。俺にはもう友達とかはいないから」
 喰っちまったからな、なんてとてもじゃないが言えない。
「あら」
 雪城さんが上目遣いに睨んでくる。ああ、その冗談ぽくおこった顔は愛らしい。
「私は違うの?」
 
 そのとき、俺の中になにか暖かいものが生まれて。
 随分後で思い返したのだけれど、アレは泣くときの感情だったんじゃないかと思う。
 でも、涙は随分前に枯れていて、出なかった。