ゆきゆきてプリキュア(4)

 なんて夢だ。俺が雪城さんに酷いことなんて、するわけがないじゃないか。したいわけじゃないか。俺は人食いの化け物だ。きちがいだ。でも、そんな俺を救ってくれたのは雪城さんなんだ。
 時計はようやく日付が変わったところだった。ベッドに雪城さんはいない。今日は雪城さんは来なかったのだ。勿論、この時間帯には雪城さんは家に帰ってしまっていることが多いのだけれど。
 そうか、雪城さんが来なかったから、あんな夢。
 なんてあさましいんだ。俺はこれまで雪城さんにどれだけのことをしてもらったんだ、彼女が俺になにか見返りを要求したことがあったか?彼女の清潔で高貴な人となりを汚すような、気の狂った夢。
 俺は泣いた。いや、泣こうとして涙が出なかった。どうして俺の心はこんなに渇いているんだろう。雪城さんがいつも滋味を含んだ水を注いでくれるのに、俺の心はまるで底の抜けたバケツみたいだ。結局、頭を抱えて朝までうなり続けた。
 
 朝。夢遊病患者のように起き出した。気分が悪い。ジャージに着替えて外に出てみる。
 
 太陽が黄色い。
 丁度学校の登校時間のようだ。近所の学校に通う学生が往来を歩いている。
 
 ――ああ、君達の平和は、幸せは。まるで脆い。俺は地獄を垣間見てきた。ちらり、と覗いただけでも発狂するような代物だ。俺は伝染病の媒体だ。俺の見た地獄は君達に伝わり、そうしていずれは世界を焼き尽くす。
 この世界と、アレは繋がっている。アレは君達と決して無縁ではない。死ぬ。死。人間は、人間を殺す。人は人を喰うことも出来る。
 
 どうだ。おぞましいだろう。
 
 俺がぼんやり家の前で立ち尽くしていると、急に声をかけられた。
「まあ」
 振り向いて驚いた。
 品のいいブレザーの制服をしゃんと着こなして。真っ白な肌の少女が立っている。雪城さんだった。
「あ・・・と」
 いきなりだったので、声も出ない。
「おはよう」
 それだけ言った。不細工な挨拶だと思う。けれども雪城さんはにっこりと笑って。
「はい、おはようございます」
 言ってくれた。どうしてこの子はこんなにやさいしのだろう、などと考えるのは、単に俺が孤独な人間だからなのだろうか。
 至福。俺は雪城さんの顔を見つめてぼうっとしてしまった。
 何秒たっただろう。いや、一瞬だったのか、俺はぼんやりと雪城さんを見つめて立ち尽くしていた。そのとき、急に耳障りなノイズが脳にまとわりついてきた。
 そのノイズは俺の頭の中を小さな結石のように跳ね回り、偏頭痛を引き起こした。それが人語だとわかるのにすこし時間を要した。
 そのノイズ。聞き覚えがある、不吉な戦慄。
 それは、雪城さんの隣から聞こえてきている。
「ねえgsねえ、ほのか、誰@[-^0-なの、このfzs人」
 俺はぎゃあ、と危うく声を上げそうになった。俺はあわててその声を飲み込んだ。
 俺は雪城さんの隣にいるソレを知っている。はじめてみたはずなのに知っている。思考が廻る。廻り始める。とまらない。加速してゆく。
(なぜあいつが、アレがここに)
 ソレはおよそ人ではない。いや、生物であるのか、有機物であるのかすら疑わしい。そのおぞましきものは今まさにこの世界を、平和な日本を侵食し始めたのだ。
「雪城、さん」
 俺は雪城さんに小声で話しかけた。しかし雪城さんはきこえなかったのか、ソレと会話を始めたようだ。雪城さんの声ははっきり聞こえる。
「あ、なぎさ、この人はね、私の知り合いで」
「えfdえな‘にぃ?彼fdaslk氏ぃ?ほのgfaかgfaやるじゃん」
間違いない。熱帯にいたあいつだ。人間の言葉を操る。俺には聞き取りにくいが巧みに人の中に入り込み、人を操り、人を喰う。
 あいつだ。あいつには気をつけないと。雪城さんが危ない。
「あの、こちら、美墨なぎささん。お友達なんです」
「えgaへ・・・どfdsiうもtぉ。なぎ:さです」
 今俺が下手に動くと…危ない。奴はいっぺんに侵食を始める。ベトナムでは完全充足状態の米軍機械化歩兵一個小隊が一晩で奴に食い尽くされたのだ。雪城さんが。もし彼女に何かあったら。
「どうも」
 ぺこり、と頭を下げる。ソレもなにか上方に突き出した触手のようなものを折りたたんでいる。
 奴は、抜け目ない。完全に擬態している。このあたりで気がついているのは俺だけだ。
 ああ、雪城さんを守るため。狂人と思われるのはかまわない、こいつが化け物だと。あの赤道直下にいたソレなのだと叫びたいのだが。
 
 ―来る。
 電波で襲ってくる。奴らの常套手段。その感触が俺の心に触れた。ぞわりと、鳥肌が立つ。
「え:@えとfda、顔色dafが@悪い^みた:lafdいですけど、大丈夫ですか」
(なんだ)(こいつ)(いい年をして)(仕事もせずに)
 ああ。こうして、人の不和を招くのだ。
「あのねなぎさ、今この人は病気で静養中なの」
 雪城さんの声はきちんとクリアーに聞こえる。やはり俺が狂ったわけではない。
「あ、そうなjfdaoんですutか。道理@@@@@@で…。ごめんなさい」
(うそ付けよ)(この変態ペド野郎)(キモイんだよ)
 ネガティブな思考を送り込んでくる。
 3年前夜ごと年度も何度も送り込まれたソレの思念。ああ、あの悪夢が。
「あの、それにしても、やはり顔色が悪いようですね。お休みになったほうが」
 雪城さんの表情が曇る。
「ほのfdか、そjfdaうなの?」
(死ねヴァーカ)(さっさと学校行きたい)
 ソレが.ソレが。雪城さんに触れる。
「危ない!」
 反射的に。ソレが雪城さんに触れる寸前。俺は雪城さんを突き飛ばしていた。
 倒れこそしながったものの、大きくよろける雪城さん。なんだなんだ、と周囲の学生が立ち止まる。人だかりが出来そうになる。
「ちkgょっと、いきなfsokりなんな@@@@@@んですか!」
(ざまあみろ)(致命的)(オマエ嫌われるよ)
ソレが粘膜に包まれ、腐臭を放つ胴体をくねらせながら勝ち誇る。
「なぎさ!その、大丈夫なの。この人はすこし、不安定なところがあって」
 雪城さんは…笑っている。ああ、なんて歯がゆい。なんで、俺がもっとも大切に思っている人に取り付くのだ,ソレは。
 それは四方に伸ばした触手をくねらせながら、雪城さんを気遣う素振りを見せた。雪城さんの口腔を伺い、股の下に触手を送り込んで。
 しかし、俺は耐えなければならなかった。こういう手段で。こいつは挑発するのだ。そうして、手当たり次第に。やがてはこの町を。日本を。世界を。
 
 
 
 
 

 俺は無力感にさいなまれながらソレと雪城さんが並んで学校に行くのを見送らなければならなかった。
 奴は…この町にやってきた。それも、雪城さんを取り込むという最悪の形で。
 
 ぷしゅー。
 間の抜けた音とともに奴が毒液を放つ。雪城さんには幸い降りかからなかったが、近くにいた学生にその液体がかかる。と、見る見るうちにその学生もソレへと変わり果てていった。それは変態や脱皮ではない。進化でもなく退化でもない。ソレはただの異形。化け物だった。
 
(この娘は)(変えない)(オマエが苦しむのを見たい)
 
 ソレの電波が遠ざかる。ソレが与えるもの。
 絶望。奴の前にはいかなるものも無力。俺はそれを嫌というほど思い知っているのだ。
 雪城さん、雪城さん、雪城さん。ああ。せめて君だけでも助けなければ。