第三日 北郷―日向―小林―霧島―国分

 目が覚めると6時を過ぎていた。昨日は早かったのに、よく寝たもんだ、そう思って隣を見ると雪城さんはまだぐっすりと眠っていた。静かで規則正しい寝息を立てている。余りにも無防備な寝顔には何の苦痛もないようで、そのことは僕をとても安心させた。雪城さんが僕のところに来てしばらくというもの、彼女は毎晩のようにうなされていたのだ。それも飛び切りの悪夢で、夜眠るのが怖くなって眠ることすら出来なくなったこともあった。
 あの頃の憔悴しきった彼女に比べると。ああ、平穏というものはなんてありがたいことなのだろう。世界の滅びと引き換えだとしても、彼女の今得ている安寧は僕にとって無常の喜びだ。
 テントから這い出して軽く体を動かした。五ヶ瀬川の河原の方まで降りて行ったり、狭いキャンプ場の敷地をうろうろしたり。炊事等の鴨居で懸垂をしていると雪城さんが起きてきた。
 テントから頭だけ這い出して、きょろきょろしている。
「おはよ」
 僕が鴨居にぶら下がったまま声を掛けると雪城さんが驚いたようにこっちを見た。テントから僕のところまでは10メートルと離れていない。長い髪がふぁさっと揺れた。雪城さんはいったん目をまん丸にして驚いて、そうして微笑んだ。
「おはよう。もう、朝から汗まみれじゃない」
 自分の体を見るとシャツに点々と汗が浮いていた。
「あー。汗まみれってほどじゃないけど」
「ほんともう。骨休めにきたのに疲れてどうするの」
「昨日はバイクの上でじっとしてたから」
 雪城さんはテントに潜り込むと僕のシャツの替えを引っ張り出してきた。
 
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 8時くらいに撤収。昨日とは変わって良い天気になった。
 山間部を抜けえびの高原へ向かうことにする。国道327号線を西へ走る。途中おせりの滝、という看板が出ていたので立ち寄ってみた。駐車場にバイクを止めてちょこっと歩くと、なかなか落差のある見事な滝を見ることが出来た。途中に滝つぼがあって、2段になって水が轟々となだれ落ちている。
 ここも台風の影響で遊歩道が崩れていて、足元がおぼつかないが途中の展望台まで雪城さんとあがっていくことにする。雪城さんは何度か転びそうになり、そのたび僕の手につかまってはごめんなさい、などとあやまるのを繰り返した。
 
 
 そのあと再び国道327を西へ。
「天気もいいし、対向車も少ないし、気分いいですねー」
「うーん、確かに気持ちいいんだけど」
 一寸僕は不安だった。その不安はそこから10分も行かないうちに的中した。路肩の看板に、全面規制中、の文字が。
「ありゃりゃ、雪城さん、こりゃだめだわ」
「だめですねえ」
 Uターン。抜け道もなさそうなので再び来た道を引き返し、さらに南の国道388へ。ところがこちらも山越えは通行規制で出来なかった。
「今年の台風は酷かったからなあ。しかし国道まで止まってるなんてね」
 雪城さんとルートを再検討する。このままいったん日向市まで降りて、県道経由で国道219号線まで出ることにした。
「あんまり楽しくなさそうだけど」
「そうなの?」
「うん。結構交通量が多いと思う」
「でもまあ、多分それならちゃんと通れるでしょ?」
 決定。まあ道自体は広くて走りやすいし、無難だなあ。

 えびの高原手前のラーメン屋で昼食をとる。
「あ」
 ラーメンを啜りながら僕が変な声を出したので雪城さんが驚いて、
「どうしたの?」
 などと気遣わしく聞いてくる。
「ラーメン喰うの、半年振りくらいかもしれない」
 こける雪城さん。
「いや、だって炭水化物と脂質が異常に多いし。そのくせたんぱく質が少ないんだから、まったくこんなじゃラーメンデブに…」
 雪城さんは声にこそしなかったがはいはいという表情をして自分の食事に戻った。
「ちぇ。九州ラーメンには替え玉があるって信じなかったくせに」
 雪城さんはむっとして言い返す。
「だって嘘ばっかりいうんだもの!」
 ああ、怒った雪城さんはかあいいなー。
 
 
 
 霧島スカイラインで風景を堪能し、霧島神宮へ向かった。
 雪城さんはいつものように鳥居をくぐらなかった。神社自体にも、ある一定の距離以上は近寄らない。
 バイクを遠くに止めて、僕は雪城さんを置いて歩き出した。
「ん。待ってて」
「ごめんなさい」
 しゅんとしてしまった雪城さん。こんな雪城さんは―見たくない。でも、ここでやっておきたいことがあった。
 僕は和洋を問わず、全ての神様にいつもお願いした。
「雪城さんが幸せになれますように」
 もうすぐ世界が滅ぶのに、それでもこの願掛けはやめることが出来なかった。
 
 
 
 http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=31.51.52.903&el=131.1.15.731&la=1&sc=7&CE.x=92&CE.y=237
 もう一度山を登って、国道223で降りる。この国道を下りきると、桜島を望む錦江湾だ。
 途中で、日当山温泉という温泉街を通る。ちょっと気になったので国道を一本はいると、商店街のアーケードになっていた。
「商店街といっても…」
「ええ、温泉旅館とかばかりで、なんだか温泉街と言ったほうが」
 共同浴場はあるかな、と思いながら狭い道をバイクでそろそろ走っていくと、ちょっといりくんだところにそれがあった。
「んー。入ってく?」
 こくこく、と雪城さんが頷く。今日はえびの高原でちょこちょこバイクを降りて歩いたりしたので汗もかいているし、丁度良い。
 
 建物のつくりはそんな上等なものじゃないが温泉は絶品だった。僕がいつものようになるべくのんびりしても、やっぱり雪城さんのほうが時間がかかった。待合室の椅子に腰掛けてフルーツ牛乳なんぞ買って呑んでいると、番台のおじさんが話しかけてきた。
「インターネットかなんかでここのこと探してきたの?」
「ふにゃ」
 急にインターネットとかあまりにも風情のないことを言われたのでへんな答えをしてしまった。
「いいえ、たまたまですよ」
「あー、そうなんだ。ここ一応日当山の元湯だからね」
「へえ、どうりで良いお湯だと思ったんですよ。完全掛け流しだし」
 満足そうに頷くおじさん。
「ちょうど42度の温泉がわいてるんだ。すぐ裏がポンプ室」
「ほー。こりゃまた計ったようにいい温度で」
「夏はそのままだとちょっと熱すぎるけどね」
 おじさんは色々と話してくれる。南九州の人は総じて気さくで明るい。土地柄という奴か、老若男女問わないような気がする。
 そうこうしているうち雪城さんが、
「おまたせー」
 と、女湯から出てきた。おじさんにすすめられるまま温泉の湯をペットボトルに詰める。飲用も出来るとかで。
 
 すっかりリラックスした気分になって、再びバイクを走らせるとすぐに海に出た。キャンプ場がある海水浴場の入り口でバイクを止める。目の前に海が広がった。
「ああ、海」
「うん」
 バイクに乗ったまま、一寸その海を眺めた。時間は4時を過ぎていた。中途半端な時間だけど、このあたりにテントを張ろうか。季節外れの海水浴場は静かで、誰もいなかった。
 海がみたかった雪城さん。でも。
「僕が見せたかった海はね」
「ええ。楽しみにします」
 彼女はお見通しだ。この海水浴場の砂浜も関西とは比較にならないくらい綺麗なんだけど。
 
 その日は近所のスーパーで買い込んだ地鶏やムロアジの刺身やらをたらふく食べた。僕はビールなんぞを久しぶりに飲んで酔っ払ってしまったが、考えてみると雪城さんの前で酔っ払うのなんて初めてだったのかもしれない。