第五日        愛(1)

 http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=31.22.34.332&el=130.51.23.393&la=1&sc=8&CE.x=202&CE.y=369
 
 せっかく朝早くテントを撤収、バイクに荷物を積み込んで出発したというのに、佐多岬へ向かう有料道路は8時までゲートが開かなかった。あと30分以上もある。門の前でぼけっとしているのもなんだったので、脇道に入ってすぐのところにあった防波堤の上で湯を沸かした。
「まあ、インスタントだが」
 かたくなにホットコーヒーだった。熱いから気をつけて、と断って雪城さんに紙コップを手渡す。二個何十円高の、カップに入っている奴だ。
 ふうふうと雪城さんが息をコーヒーに吹きかけて、ちびちびと口に含んだ。
「わざわざディパックの中に携帯焜炉やらお水やらお鍋やらを入れていたのも」
 雪城さんがはにかむような表情で言った。
「いまわかった。このためだったのね」
「ま、本当に暑い時はスポーツドリンクとか飲んでいるけどね」
「あら」
「真夏のバイクはけっこう地獄。なんたって足の間にエンジン抱えてるんだもの。こいつは」
 僕は僕たちが乗ってきたおんぼろなヤマハのトレールを指差した。
「小型だからいいけれどね。大型バイクなんか悲惨だよ。町乗りで熱中症になる奴とかいるからねー。ああ、こいつでレースに出たときも一度悲惨なのがあったな…って」
 雪城さんの顔を窺って、口にした。
「そんな話、あんまり興味ない?」
 首を横に振る雪城さん。ああそうだ、もうお互いに興味のないことなんてない。少なくとも僕はそうだ、最後の最後まで雪城さんと話をして、彼女を知って行きたい。そうしてそれはきっと彼女のほうでも。ああ、そりゃ自意識過剰。でもな。あれこれと思うといて持ったってもいられなくなって。
「いやまあ、主催者のコース設定がおかしくってさ。あまりにも急勾配な坂とかを作るものだから、上れない奴が続出で。まあ、俺もなんだけどねえ。それでバイクを押して登るわけ。ところがね」
 もういい、僕は彼女に気兼ねしない。こうして聞いてくれているじゃないか、何もお互いに合わせる事なんてないんだ、気を使うことなんてないんだ!
 僕はぺらぺらと調子に乗って話した。学生の頃、夢中になっていたこと。自分が雪城さん位のときに打ち込んでいたこと。彼女は黙って聞いていた。ただ黙っているわけではなくて、僕の目をしっかり見て、あら、とかまあ、とか。時々相槌を打ったり。
 要するに、聞き上手なのだ。
「それで?」
 僕が一通り話し終えて少し間が空いたとき、雪城さんが話しかけてきた。
「どうして、バイクに乗るのをやめてしまったの」
 潮風に長い髪がなびいている。朝の陽光がやわらかい。彼女の口は少し意外な質問を発した。
「ん…なんとなくかな」
「うそ」
 糾弾するのではなくて、優しげな声だった。僕のことはすっかりお見通しで、それでいて彼女は俺を見下ろすことはしなかった。ただ僕の隣に彼女はいたのだ。
「あー…とね。レースをやめたのは、つまらなくなったからだよ」
 そのまま雪城さんは、俺の言葉を待った。単に飽きた、というわけでないのを知っているかのようだった。
「んと。言い訳がましくなるけど。厭らしい人が増えた」
「まあ、どんな?」
「国内で本物のレース経験があるのに初心者だけの草レースにエントリーしたりね。ま、勝ちたかったんだろうけど、それで”ごめんねー”なんて澄ましてるんだよ。いい年した40がらみのバイク屋のおっさんとかね。主催しているの方もなあなあでさあ。それに、バイク自体が飛躍的に強化された。殆どレーサー見たいなバイク。タイヤなんかも…まあ、つまんない違反をする奴、それを見てみぬふりの連中ばかりでね」
 愚痴じゃないか。
「自分らくらいだったかなあ、自走でコースまで行って、そこでナンバーとかミラーとか外して走ってたの。工具も、ガソリンすら持参でね。今はみんな絶対に家から車に積んで走ってくるものね」
「あら、昔はそうじゃなかったの?」
「いや、普通はそうだったけど。でも、もっとこう、なんていうか、そんなにギスギスしてなかった。僕らみたいな貧乏な連中でもそれなりに楽しめた」
「ふうん」
 思案顔の雪城さん。
「なんかね、勿論勝ちに行ってたけど、それ以上に楽しみがあったんだよ。走ることが面白いからやってたんだよねー。勝つことが楽しいんじゃなくて。それで、ついていけなくなって」
「やめっちゃったのね」
 そういうこと。僕は頷くと少し冷めたコーヒーを飲んだ。
「つまんないだろ。別に趣味でやってただけだから、意地になることもなかったんだけど。でもすこし悔しかったかな」
 
 
 
 
「人間は、醜いのかしら」
 急に、なんだよ。話が飛んだ。
 すこしあっけにとられた。
「だからほろぶのかしら。それは決まっていたことなのかしら」
「そんな大げさなことじゃないよ。それに多分僕の価値観が偏屈なだけだ。僕だってお金持ちだったら、多分続けていたと思う。その程度のことだよ」
 雪城さんは浮かない表情でぽつぽつと話した。
「でも。そうした虚栄心やエゴを吸って彼らは拡大した。虹の園―この世界の邪悪な瘴気が彼らのエネルギーだった。彼らは私たちのそうしたちいさな見栄やら悪意を少しずつ汲み上げて、この世界を今まさに押しつぶそうとしているの」
「でもこんなつまらないことで」
「貴方にとっては重大なことだったでしょう?」
 言葉に詰まった。勿論それを否定することは嘘になる。
「この世界の滅びも必然…近代人が獲得した”自我”が一定の許容量に達したとき、彼らが現れるというように仕組まれていたとしたら…」
 雪城さんの独り言を止めるすべはなかった。僕はただ阿呆みたいに彼女の取り憑かれたような暗い横顔を窺うだけだ。
「でも」
 雪城さんが顔をあげた。
「滅びが必然としたら。この世界、私たちの存在、私の見ている全ての世界が消え去るのも、結局法則に拠っているのだとしたら」
 僕のほうを向いた雪城さんは、その他人が聞いたら狂人と思うような会話と裏腹に。
 ―いや。傍目には狂人のそれかもしれないが。
「私はその法則を、公式を見つけたかったかもしれない。生命という現象を終わらせることもまた、現象なのだったら。きっとそのための方程式と、その解が用意されているはず」
 雪城さんは立ち上がった。憂いは消えていた。
「そのことは、心残りかしら」
「僕には心残りはないよ」
 きょとん、と雪城さんが僕の顔をのぞきこんだ。僕も立ち上がって、尻の砂をぽんぽん払った。
「君は学者肌だなあ。僕はそんなこと、どうでもいいや。最後まで君のそばにいた。そのことが果たされれば、それでいいや」
 ぼんやり見開かれていた雪城さんの目。呆然としていた彼女のその大きな瞳が焦点を結んだ。
 そうして、くすくすとわらいだした。とびきりの笑顔で。
「いいえ、私もそう。本当は、もうそんなことどうでもいいの。なぎさのこととか、心残りはあるけれど。ああ」
 ちょっと顔が赤くなった雪城さんは矛先を変えた。
「そんなことより」
 それ以上雪城さんは言わなかった。普段の彼女からはすこし想像もつかない身軽で快活な動作で、防波堤から飛び降りた。
「時間、時間」
 言われてはたと腕時計に目をやった。
「おっと。もういい頃合だね」
 8時を少し回っていた。
 
 
 
 
 
「通行料を400円取ってだね」
 灯台まで歩く途中、雪城さんに話しかけた。
「あのトンネル通るのに100円取るのは、詐欺ではないか」
 まあまあ。雪城さんはにこやかに僕を宥めた。佐多岬まで行くにはまず有料道路を通るのに400円。さらに先端まで遊歩道を歩くのに100円取られた。
「いいじゃないの、そんな」
「気持ちの問題だ。それなら入り口で500円取れっての」
「でもそれだと」
 雪城さんが落ち着いて言う。
「路線バスの人からお金を取れないんじゃない?」
「あそこからなら100円だよ?」
「シーズン中は数も馬鹿にならないでしょうし」
 はあ。雪城さんは冷静だなあ。
 
 快晴。風が少し強い。展望台からは離島が見渡せた。展望台から見える島を掘り込んだレリーフを見ながら、アレが何島、これがどう、などとふたりで話した。
「んー。宝島は見えないかなあ」
「もう、またその話?」
 時々雪城さんを怒らせてみる。楽しい。以前雪城さんに、いつもの調子で宝島に行った事がある、といかにも冗談のように言って見せたことがあった。いつも僕のつまらない嘘にだまされていた雪城さんは(彼女ははじめあまりにも人の言うことを簡単に信じすぎたのだ)信じなかった。さんざうそつきだの馬鹿呼ばわりまでされたあとで、僕は地図を見せてやったのだ。奄美大島のすこし北あたりに本当にその島はあり、何年か前に僕はそこを訪れていた。
 ふくれっつらをやめて、雪城さんが言う。
「って、このあたりまで来るの何回目なの?」
「んーと」
 仕事の都合で福岡にいた頃はけっこう車やらで来たこともあったし。学生時代に離島へわたったこととか含めると。
「4、5回は来ているかなあ。でも大隈半島の向こう側―東側へ回るのは2度目かな」
「まあ、どうして?」
「時間がかかるから。海沿いは道があまり良くないんだ」
 ふうん。といって雪城さんはまたレリーフを見つめた。

 
 そう。時間がないからとか、そんな理由で。立ち寄らなかった場所がある。毎回見逃していた風景がある。それは多分僕にとって大切なものだったのだろう。
「あのさ、なんだったら、屋久島のほうへわたってみるかい?高速船に乗れば―」
 雪城さんは最後まで聞かずに首を振った。そして落ち着いた声で言った。
「貴方が見せたかったのは、きっとその海じゃあ、ないのでしょう?」
 また飛躍。海の話は一言もしていないのに。しかし確信に満ちた声で彼女は宣言した。
 そう。”海を見る”という目的なら嫌というほど達せられているのに。現に今足下に広がる大海原の壮大な光景もまた有名な観光名所なのだ。
 言葉は特に要らなかった。
 うん、とまるで子供のように僕は頷くだけだった。彼女もそれきりそのことを追及しなかった。