霧島佳乃。ちょっとかわっているけどかわいらしいコだな、と思っていた。クラスの中では明るい人気者で、友達も多かった。僕のような何のとりえも無い、だらだらと高校生活を過ごしているようなだめ人間にも何ら分け隔てなく話し掛けてくれる。そんな彼女の姿は、少々陳腐な物言いだがまるで天使のようだった。
 ただひとつ気になることが有った。手首に巻いたバンダナだ。彼女はかたくなにそれを外すことをしなかった。どうしても開いてはいけないパンドラの箱でもあるかのように、かたくなにそれを守った。そのためいじめに合うことも何度か有ったように思う。しかし有るとき彼女の姉にあたる診療所の女医さんが、いじめを行っていた連中に注意―刃物を突きつけ脅すことは”注意”で済まされるのだろうか―兎に角いじめの連中を追い払ったことで、霧島佳乃にたいする不当で不毛な嫌がらせ行為は収まった。
 その女医さんもすこし冷たい感じはするが、すっきりと鼻筋の通った間違いない美人で、何処となく幼い佳乃にもその面影があるようで、僕は驚いてしまった。当時は僕も小学生だったが、大きくなったら霧島佳乃も愛らしい子どもから少女へ、大人へと成長して行くのだ、それは僕になんともいえない感情をあたえ、僕の心をかき乱すのだ。
 
 兎に角、佳乃である。夏休みはじめの暑い日、僕は柔道部の練習と言う名を借りたこの世でも凄惨な部類に入る私的制裁を受けるべく早朝の学校へ登校していた。そう、これはリンチなのだ。長距離の走りこみ、受身、打ち込み、乱捕り、サーキットトレーニング、筋力トレーニング。
 いかん、考えただけではきそうだ。それらを上級生の罵倒を身に受けながらひたすら繰り返すのだ。そんな憂鬱な朝の登校の路上で、霧島佳乃を見かけるというのは僕にとっては僥倖以外の何者でもない。
 僕が暗い気持ちだったからだろうか、余計に彼女の屈託のなさ、明るさは魅力的だった。
「わっ、木戸くん、こんなに朝早くから何処行くのぉ?」
 通学路で霧島佳乃に声を掛けられた。振り向くと笑顔。素っ頓狂な声。しかし明るく伸びやかで、心地いい声だ。
「観てわかるだろ、学校だよ」
 僕は制服を着ていた。夏休みだと言うのに制服を着て、思いボストンバックを背負って道を歩いているのなんて、クラブ活動くらいだろう、ああ、あと補修とかか。
「ええー、学校行ってなにするのお」
 ぶんぶんとバンダナを巻いた腕を振り回す。
「……部活」
 僕が言葉すくななのは、佳乃が嫌いだからなのではない。寧ろ…あわわ。要するに緊張しているのだ。
「あっ、そうなんだあ。大変だねー」
 ちっとも大変じゃなさそうに言う。僕自身あまり大変なものでもないような気がしてきたから不思議だ。
「えと、霧島さんは」
「飼育委員だよっ!」
 元気な答が帰ってきた。本当に、この暑いのにどうしてこんなに活発なんだろう、このコは。ショートカットの髪がさらさらとゆれる。ほっそりとした、繊細そうな細い腕。その折れてしまいそうなほどたおやかな腕がくるくるとよく動いて彼女の感情表現を助ける。きっと外国へ行っても英語なしでやっていけることだろう。
「ふうん、飼育委員ね」
 気の利いたこととか言いたいことはいくらでも頭に浮かんでは消えた。
 話題話題話題。ああ、ろくな話題が無い。
 飼育委員ってことは、動物が好きなんだよな、霧島さんは。じゃあ、えーと。
「韓国じゃあ犬を食うんだってね!毎朝ソウル市内の”犬市場”では朝5時になるといっせいにその日屠殺される赤犬が…って」
 しまったあああああああああああああ!!!!!!なんて話題をこのモックンもはだしで踊りだしそうなさわやか朝の空気の中で。
 しかし佳乃はあまり気にした風でもなかった。
「へええ。赤犬ってどんな犬なのかな。色が赤いのかな」
 はあ、良かった。話の焦点がボケている。僕は適当に相槌を打った。
 雑談をしながら学校の正門近くまでたどり着いた。僕たちのほかにも意外と夏休み期間中は学校に出てくる人は多いらしい。堤防の階段を髪の長い少女が駆け下りてきた。と、転んだ。振り返って、見知らぬ男に手を振っている。どうも観たことの無い顔なんだが、何者だろう。
 なんにせよ、此処で佳乃とはお別れだ。僕は部室棟へ、佳乃は校舎裏の飼育小屋へ。佳乃が手を振ってくれた。黄色いバンダナがゆれる。
「ねえ君」
 僕は顔を上げた。佳乃がいたずらっぽい目でこちらを見ている。
「魔法が使えたらって、考えたことある?」
「うーん」
 僕はちょっと考えた。そりゃまあ、すこしは。
「あるよ」
「へえ、どんなの?」
「内緒だ。こっぱずかしい」
「ケチだねえ」
「じゃ、霧島さんはどうなんだよ」
 うーん。俯いて考えるそぶりの佳乃。
「だめ、やっぱり秘密」
「はぁ」
 おかしなことを言うなあ。ま、そんなエキセントリックなところがいいとこなんだけど。
 大きなアクションで何度も振り返りながら佳乃は校舎裏へ駆けて行った。