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 夏休み、何かしようと思って机に向かってもまるでその気にならない。いや、その気にならないなどというのはちょっともったいつけた言い方だ。集中力が足りない、意欲がわかない、本気になれない。色々な言葉が頭をよぎるが、俺の頭の奥、脳髄の奥にある、頭が痛いときに中にガラスの破片でも入れられたかのようにずきずきとする部分から真実が伝わってくる。
 要するに、無能なのだ。
 おろかで、馬鹿で、クズなのだ。それを自覚していながら自分を高める方向へはいけない。頑張れない。無能な上に根が暗い。かといって社会に復讐しようだとかそういう大それた事ができるわけでもないのだ。
 いっそ気が狂ってしまえばどんなにいいかとも思うのだが、残念なことにこの陰惨で抑うつ的な現実から解放されるほど思考は道を踏み外してくれない。
「俺にできることは…オナニーだけなんだ」 
 
 涙が溢れる。今日も俺は夕方に部活から帰ったあと、一心に自分のそれをしごきたてた。テレビは丁度高貴な生まれの方の婚姻のニュースを流している。眼鏡をかけたあのすこしオタクが入っているという噂は本当なのかしら、もしかして結婚なさらないのはそのせいなのかしら。俺はぎょっとなった、なぜならいままさに俺の母親の声でささやくなにか、俺はそれを電波と呼んでいる、そのささやきが俺の背後で聞こえたような気がしたからだ。慌てて周囲をきょろきょろと見回すが、誰もいない、ああ、いつもの俺の部屋だ。
 しっとりとしたベッド、暗く閉ざされた雨戸。床には廃人の象徴ペットボトルとエロ本(きわめて特殊な性癖を持つ人が閲覧する、ロリ系のそれ)やエロアニメ(以下同文)、あやしげなゲーム、そして妙に薄っぺらいアニメ系の絵柄の、修正が入ってるんだかどうなんだかわからない漫画本。
 大丈夫だ、俺は一人だ。
 ああ俺は一人でよかった、全く俺は一人だ。まったく昼間は他人と行動しなければならず落ち着かない。
 俺は一応運動系のクラブに入っているもののまったくスポーツが好きではない。そもそも俺はいじめの一環として強制的に入部させられたのだ。
 肉体的にも精神的にもつらい毎日だ、俺ほど苦労している奴は世界中探したってそうはいない。なぜなら俺は毎日毎日自殺の誘惑に抗えないほどやみ衰え衰弱し、まさに死のタイトロープといった風情で毎日を過ごしているからだ。
 今日も陰惨ないじめを受けた。俺は道場で胴衣を脱がされ股間を意味もなく練習の合間に弄りまわされ、不覚にも勃起してしまった時には嘲笑の対象となり、挙句下半身を晒されたまま柱に縛り付けられ放置されてしまったのだ。
 女子運動部の部員たちにも俺の扱いは知れ渡っており、帰りがけにちらちらと道場を覗き込んでは噴出して帰る女たちの声が聞こえた。
「またあいつやられてるよ〜」
「キモイよね〜」
「つうか小さい」
「うん小さい」
「小さい」
「小さい」
 俺は涙を流した、勿論くやし涙だ。俺をこんな目に合わせた連中を見返してやる、復讐してやるとそのときばかりは考えた。特に朴。あいつは絶対に許さない、そう考えてもまず朴は俺よりうんと体が大きくて力が強く、おまけに柔道以外に何か得体の知れない格闘技を身に付けていてとても太刀打ちできない。俺は瞬時に絶望した。
 女たち罵声が小さくなる。と、そのとき。
 俺は信じられないものを目にしたのだ。ああ、あの時俺は死んだ!そう、死んだ!
 道場の外、開け放たれた中庭への扉の向こうに、霧島佳乃が立っていたのだ!
 たいそう驚いた風でこっちを観た佳乃。そのショートカットの活発そうな髪型はさらさらと夏の風にたなびいて、涼しげだった。
 しかし愛らしくも端正な彼女の表情はなんともいえない複雑なものになっている。そして彼女の視線はある一点を擬ししていた。
 ゴルゴダの丘のキリストのように貼り付けにされた俺は見るも無残な下半身全裸という姿で縛り付けられ放置されている。道場の帯を利用したその拘束はいかに身を捩っても逃れられないのだ。
 佳乃は俺を見てかたまってしまったらしい。そして随分と悲しげな表情をしていた。彼女がそんな表情を持っていたなんて、という思いと、佳乃に軽蔑されたという思い。
 さっきの女たちの罵声。
 小さい。小さい。
 俺ははっとした。そうだ、最悪の事態を招いてしまった。
 俺は、詰られ、さげすまれ、羞恥の果てに―勃起してしまったのだ。
 
 ソレからのことは良く覚えていない。ただ、我に帰った佳乃が大慌てて何処かへ走り出したのを観たのだけは覚えている。ついこの間みたいに、気楽に話し掛けることもないだろう。
 
 俺は射精した。女たちの軽蔑、佳乃の冷たい視線をこのぶよぶよの惨めな身体に一心に受け止めながら。
 事が終わって、俺は呟いた。
「魔法なんてあるもんか魔法なんてあるもんか魔法なんてあるもんか魔法なんてあるもんか…」