葵ちゃんは強い(その17)

 姫川琴音の手紙






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 前略

 藤田浩之様、突然このようなお手紙を差し上げますことを、どうかお許しください。私にはもう時間がありません。それは本当に、比喩的な意味でもオーバーな表現でもなく。恐らくは数時間、ことによると数十分の命だからです。
 本当は藤田先輩には何もお伝えせずこのまま世を去るつもりでした。けれど、ああ、どうしてでしょう。とても心残りで。いいえ、死ぬことが恐ろしいとか、遣り残したことがあるだとか。そういうことではないのです。
 今睡眠薬を服用しました。致死量です。正確には、致死量の十五倍分のバルビツールの粉末です。このお薬はでたらめに中枢神経を抑制しますので、恐らく数十分で意識を喪ってしまうかと思います。
 ああ、まずお伝えしたいことからかかなければなりません。頭がぼうっとしてまいりました。家族や葵ちゃんへの手紙は、お薬を飲む前で本当に良かった。ちゃんとあの人たちを傷つけないようきちんと書くことができました。
 けれど、いま先輩に一番にお伝えしたいことがございます。なんら修辞を用いるつもりはありません。

 好きでした。愛していました。

 その理由をいちいち書き付けるほど、野暮なこともないとは思います。けれども、私にかけられたのろいのような何かから解き放ってくださった藤田先輩は私にとってとても得がたい存在で、本当に感謝しております。
 それはこんなことになった今でもそうなのです。もしかしたら、あのまま自分の殻に閉じこもっていれば何も起こらなかったのかも、などと頭をよぎりますが、しかし私の閉じた世界から連れ出していただいたあの藤田先輩が私にしてくださった努力はいくら感謝してもし足りないくらいのものなのです。
 それからはずっと、遠くからそっと藤田先輩を見ていることしかできませんでした。あまりにも消極的で、駄目な自分に腹が立ちます。
 当然といえばそうなのですが残念なことに、私のそんな気持ちに、藤田先輩は気づいてくださいませんでした。それは仕方のないことでした。私には過分な求めだったのだと思います。
 そのことを本題に入る前にどうしても言っておきたかったのです。
 
 時間がありません、先を急ぎます。
 なぜこんなことになったのか、そのことについて藤田先輩は疑問をお持ちでしょう。もしかすると藤田先輩は葵ちゃんに何らかの疑いをお持ちなのかもしれません。ですが誓って申し上げます。葵ちゃんは潔白です。
 私がこの生き地獄に葵ちゃんを連れ込み、陥れたのです。蔑むのならどうか私を蔑んでください。

 私が葵ちゃんに近づいたのも、エクストリーム同好会に関わったのも、一重に藤田先輩に近づきたい一心からでした。そうしてすぐに藤田先輩と葵ちゃんがただならぬ仲であるということに気がつきました。
 そのときの私は、悪魔かなにかに魅入られていたのかもしれません。肩にいつも何かがたかっていて、肩が重くて凝ってどうしようもなく、そうしていつも心も耳元もざわざわとしていました。
 本来でしたなら、お二人の仲をそっと見守るのが筋であったろうに、私の心に湧いたのはこともあろうに、嫉妬でした。本当にお二人の仲が腹立たしく、妬ましくてなりませんでした。肩の凝りは酷くなる一方で、そのために学校をお休みしたことも一度や二度ではありません。
 そんな自分の心の弱さが今となっては憎くて憎くて、どうしようもありません。私は本当に駄目な女です。狂った女です。
 葵ちゃんも藤田先輩も、憎くてたまりませんでした。それはもう、夜も眠れないほどに。そんな毎日が何日も続くうち、あの悪魔が私に囁きをはじめたのです。あの、肩に止まる黒い鳥を使って何度も何度も私に囁きつづけるのです。
松原葵に付け込むのは簡単だ、あの女は弱い。お前が悪魔と取引すれば、あの女も同じように取引するに違いない。何も刃物で殺すことはない、松原葵を醜く変えてしまえば、きっと男は葵からはなれていくだろう。その後でお前が後釜に座るなり何なり…」
 云々。肩の黒い鳥の声は日増しに大きくなってゆきました。
 私は表面上は誠実なマネージャーとして振舞っていました。その演技に関しては、自信があります。葵ちゃんも藤田先輩も本当に手もなくだまされて、その様は少しだけ愉快で溜飲が下がったのです。今にして思うとあさましい限りで、自分が惨めなのですが。
 演技をするためには役作りが必要です。私は放課後は葵ちゃんのためにいろいろお世話のようなことをする傍ら、夜には文献をあたったりパソコンを使ったりして、いろいろな調べものをいたしました。
 調べ物をする動機というのは、純粋に葵ちゃんを強くするための効率的な方策を探る、本当にそれだけでした。そのときは役になりきり、懸命に調べ物をしたのです。まるで本当に葵ちゃんのためになることを祈るように。
 しかし調べ物をするとすぐ、もっとも効率的で即効的な競技力の向上のための手法があることを知りました。実に調査というものの、浅い階層にそれらは転がっていたのです。
 それが、ステロイドや成長ホルモンを弄る薬物でした。
 もっとも人口に膾炙しているところによりますと、”ドーピング”というものです。
 雑誌記事にもインターネットにも、恐ろしいほど否定的に叙述されているそれは、しかし私の肩に止まった黒い鳥にはとても魅力的に思えたようでした。
 時に写真で示されたそれを得た人の写真や、化学式で説明された効果などというものは私を驚かせるのに十分でした。

 異様なまでに盛り上がった筋肉。発達しきった太い腕や足。
 男性のそれは勿論女性のそれもまた恐ろしいものです。しかしそれは美しさというものとは距離がありました。少なくとも日本人的な感性では、とても受け入れがたいものだと思います。
 そして副作用です。簡単に言えば、ドーピングを行うことで筋肉をつけるためには、男性ホルモンの分泌が活発になるか、女性ホルモンの分泌を抑えて相対的に男性ホルモンの割合を増やすか、といった作用を期待することになります。
 つまり、女性的な部分を抑え男性的にしてゆくということです。
 ボーイッシュな魅力。葵ちゃんを語るならまずその言葉が適切でしょう。ですがそんな優しい、かわいらしい表現のものでないことは言うまでもありません。
 皮脂の増大。脂ぎった肌を葵ちゃんがさらすということです。乳房の縮小。クリトリスの肥大(藤田先輩にお見せすることはできませんでしたが、葵ちゃんの陰核は一時期肥大しきっていて、子供の陰茎ほどもあるくらいでした)。頭髪は抜け落ち、髭が濃くなり…。
 そう、ドーピングを行えば葵ちゃんは女性らしさを失ってゆくということです。いいえ、人間らしさを失ってゆくということでしょうか。
 葵ちゃんは本来不正や違反には人一倍敏感で、そうして潔癖でした。ですから他のこと、例えばテストのカンニングなどということでしたらでしたら葵ちゃんはきっと私の申し出を猛然と断ったことと思います。

 けれど、葵ちゃんを清廉の台座から突き落とすのは簡単なことでした。
「強くなれる」
来栖川綾香を越えられる」
 この言葉で、葵ちゃんは簡単に堕ちてしまったのです。肩の黒い鳥の指図。それはまさに葵ちゃんにとっても私にとっても悪魔の囁きでした。
 葵ちゃんもなんとなく判っていたはずなのです。スポーツを、格闘技を志すものなら耳にしないはずは有りません。事実葵ちゃんが愛読している格闘技雑誌のバックナンバーにはしょっちゅうその手の黒い噂は掲載されていたのです。
 けれど、そんな葵ちゃんを以ってしても強くなりたいという欲望から逃れることはできませんでした。
 そのとき私はすこし嬉しかったのです。
 だって、葵ちゃんはとても綺麗で高潔な人間だから藤田先輩に選ばれたんだ、だけれどもこうして汚れていっている。
 
 何度も申し上げます。私は浅ましい人間です。
 
 葵ちゃんに初めて薬物を注入した時の気持ちは忘れられません。臀部への筋肉注射。量は少ないのですが、れっきとしたアナボリックステロイドで、その薬物を入れるという行為は量の多寡を問わず競技者として明らかに一線を超えるものでした。
 葵ちゃんの不安そうな表情。けれどそれを受け入れようとしている。
 私に有ったのはただただ愉悦、それだけでした。肩に留まる黒い鳥も随分喜んだようで嬉々として私を褒め称えました。誉められたところで、ちっとも嬉しくは有りませんでしたが。
 神社の中で注射を繰り返すと、それは、もう。
 一週間としないうちに効果が現れてきました。

 藤田先輩もお気づきになったかと思います。あの時期からの葵ちゃんの筋肉の増え方は異常なのです。
 そして私はどんどんと薬の量をふやしてゆきました。でたらめな量です。そして量だけでは有りません、ありふれたステロイドだけではあき足らず、インシュリン注射、興奮剤、そして。
 競走馬用の筋力増強剤を使い出したころから、明らかに葵ちゃんには変化が生じだしたように思います。なにしろ人間に用いるものとは比べ物にならないようなもので、馬のような動物に用いるのでさえ議論がある代物ですから。
 さすがにそれを葵ちゃんに注射するのは勇気が入りました。しかしそのころになると、私も”葵ちゃんの体をむちゃくちゃにしてやりたい”という気持ちのほかに、”どこまで人間の体は発達するのだろう?”という興味があったのです。
 葵ちゃんにはただ薬物の名前だけを教えました。葵ちゃんはまた新しい物を試すのだという期待があるだけで、もう恐れのようなものはありませんでした。まさか馬用のものを注射されるなんて夢にも思っていなかったでしょう。
 私は嘘はつきませんでした。ただ、説明しなかっただけです。そんな欺瞞を思いついて、すぐにまた惨めな気持ちになりました。

 その後葵ちゃんがどうなったかは、ことによると藤田先輩のほうが良くご存知かもしれません。むちゃくちゃな量や種類の筋肉増強剤を打ちまくった葵ちゃんは肉体だけでなく、精神にまで異常をきたしたのです。
 異常なまでの鬱状態や繰状態。男性ホルモンの増加による攻撃衝動の増加。しかし中でも性欲の異常なまでの昂進は深刻なものでした。
 驚いたことに、イリーガルな方法で入手した薬物を葵ちゃんに投与するのは、精神面でのケアのためだったのです(信じがたいことですが、筋肉増強剤のほうはいくらでも輸入業者や個人輸入で手に入りました)。
 鬱状態になった葵ちゃんの様子は酷く、自殺すら懸念されるほどでした。そのため私はもっとも端的な特効薬―すなわち覚醒剤を葵ちゃんに与えたのです。
 坂下先輩との試合の時に私が葵ちゃんに渡した錠剤を覚えていらっしゃいますでしょうか。あの時渡したのがまさにそれでした。あんなものが道端のイラン人から買えるのですから、恐ろしい世の中だと思います。
 そして焦った私は(あの時は本当は内心酷く慌てました。何故なのか今でもよくわかりません。葵ちゃんの試合の勝敗など本来私の眼中にはないはずだったのに、どうしたわけかあの時は葵ちゃんを奮い立たせなければと思ったのです。
 悪魔に近い所業でしたが、肩に留まる黒い鳥はそのときは何も囁かなかったところを見ますと、あのときの私は葵ちゃん寄りに心が傾いていたのかも知れません)、また通常の何倍もの量の錠剤を手渡すという愚を犯してしまいました。
 結果葵ちゃんは異常なまでに繰転し、善悪の判断すら喪ってしまったのです。あの異常なまでの残虐性と自らの肉体の限界を超えてまでの抑制のなさは、まさに薬物のせいです。ですから坂下好恵の死にはそれを手渡した私に責任があります。
 
 とにかくそうして葵ちゃんに薬物を与え、そして葵ちゃんの体を醜く変貌させるという私の企ては、しかし失敗に終わりました。それは初めから決まっていたことなのかもしれません。すべて出来上がった、予定どうりのことだったと、そんな気がしてならないのです。
 そうして肩の鳥がげえげえとおろかな私を笑っているような。そんな気がしてなりません。
 だって葵ちゃんにどんなに筋肉がつこうが、どんな体になろうが藤田先輩はおかまいなしなのですから。
 そして、本当に予想外だったのですが、藤田先輩を葵ちゃんは辱めるようになりました。
それも薬の悪影響であったことは疑いがないのです。その事実を葵ちゃんから聞かされたとき私は内心驚喜しました。
 なぜならオチンチンを踏みつけられたり、言葉で罵られたりすれば藤田先輩はきっと葵ちゃんに今度こそ愛想を尽かすだろう。そう思ったからです。

 けれども結果は同じでした。私にはまったく訳がわかりませんでした。どうしてオチンチンを踏まれたり変態と言われて喜ぶ人がいるのか。
 マゾヒストと呼ばれる人たちについて調べても見たのですが、やはり判らないのです。
 そして加減もわからず私は、藤田先輩のオチンチンを思い切り蹴り飛ばしたり踏みつけたりしました。そうすればもしかして、藤田先輩のオチンチンに酷いことをすればするほど藤田先輩は私に関心を示してくれるのではないかと、そう思ったのです。
 それがむなしい努力に終わったのは、本当に残念でした。


 げえげえ。肩に留まる黒い鳥も私を笑いました。
 
 結局、藤田先輩は葵ちゃんに陵辱されるということが大事だったということを思い知らされました。行為がどうこうではなく、人だったのです。
 それは敗北でした。女としての惨めな敗北。
 友人を罠にかけ、人生を誤らせ、人を殺し、好きな人のオチンチンを踏みつけ蹴り飛ばしても尚私にはこれっぽちも愛情は降りてこなかったのですから。


 げえげえと、肩の鳥が煩く笑います。


 いま葵ちゃんは何処にいるのでしょうか。私は一両日中にも警察に呼ばれるようなことを言われているのですが、どうか彼女には司法の手が伸びないように祈るしか有りません。
 これからの葵ちゃんには、酷い人生が待っています。葵ちゃんがステロイドを使用した際のその場での副作用についていろいろとここに書き留めましたが、本当に恐ろしい副作用はこれから始まるのです。
 葵ちゃんに与えた薬物の量は半端なものでは有りません。まず甲状腺の機能は完全に麻痺し、ホルモンのバランスを保つ機能も完全に損なわれているでしょう。これらを治癒させる方法はなく、一生そのための薬を止めることはできません。
「一度回り始めた歯車は止めることができない」と、いつか申し上げましたね。それはまさに今の葵ちゃんなのです。損なわれた機能を維持するために投薬を続ける、それはまさに死の歯車です。
 そして与えた興奮剤の類、これも最初は比較的温和なものでしたが精神賦活剤のようなものから覚醒剤のようなものまで様々なものを使いっていた葵ちゃんには禁断症状があらわれていました。これについても苦しい闘病の日々が始まることでしょう。

 私がお話できるのはこのくらいのことです。まとまりがありませんが、どうやら推敲している時間もなさそうです。謝罪して許されることでは有りませんが、この件に関わった全ての人に、死んでお詫びを申し上げます。酷く眠くなってきました。丁度お薬を飲んで20分ほどが立ちましたが眠気が酷くいま十二時三十五分げえげえ肩の鳥が煩くて煩くていっくら追い払ってもまた肩に