葵ちゃんは強い(最終回)

 
 エピローグ









 東京から金沢へ向かう空路はすでに閉ざされていた。
 藤田浩之がそのメールを受け取ったとき、既に北陸方面へ向かう飛行機は最終便が出た後だったのだ。はやる気持ちはあったがどうしようもない。
 そうなれば陸路しか残されていない。しかし生憎、ここ2年を勉学に費やした浩之は車や単車の類を所有するどころか免許証すら持ち合わせていなかった。
 逡巡しているうちに鉄道を利用することを思いついた。上野駅に着いたのが夜10時。新幹線を利用しても、東海上越、何れも中途半端なところまでしかいけない。
 上野駅のだたっぴろい切符売り場は時間が時間だけに閑散としていた。浩之は半ばあきらめながらも窓口の男性に話し掛けた。
「石川県の方まで行きたいんですけど…もう明日でないと列車はないですか」
 この数年ですっかり怠惰な学生らしさが消え、しっかりとした口調で浩之は尋ねた。中年の窓口の男性はそんな浩之に好感を持ったのだろうか、親身に受け答えをしてくれた。
「いまからなら…金沢まで、直通が2本ありますよ」
「本当ですか」
 学園のころならマジかよおっさん、くらいの物言いをしたはずの浩之である。それが今では真人間もいいところだ。
 しかしその何処となくクールで、頼りになりそうな風貌は変わらない。女性からの誘いもこの2年でなかったわけではない。しかし浩之はそうしたものを拒絶した。幼馴染のあかりに対してすら距離をおくそ振りを見せることすらあった。しかし―そのたびあかりは酷く落ち込む仕草を見せるので、いつのまにかまた以前のように自然に振舞うようになった。
 あかり、雅史、志保。学園のころの友人とは今は離れ離れになっているが、それでも浩之は大きな恩を感じている。それはいつかお返ししなければならないと思っているのだが―つい2時間ほど前のメールで、志保にまた恩を作ってしまった。
 その着信に思わず舌打ち、勿論浩之の本心ではない。甘酸っぱい困惑。
 それは暖かい感情だ。そしてその思いを、いまから向かう先にいる人に届けなくてはならない。かけがえのない人に。友人、信頼できる人たちの支え。それがどれだけ力になり、そして…
 もう駄目だと思った人を立ち直らせるのか。それを届けなくてはならない。
 浩之の心は逸った。

寝台特急と、急行列車。2本ございます。どちらもお席はご用意できますが…いかがなさいますか?」
「ええと…」
 深くは調べてこなかった浩之である。返答に窮した。
「お時間はそれほど変わりません。金沢からは、どちらへ?」
 慌てて浩之は携帯電話を取り出した。さっきの志保からのメールをひらく。
 件名:志保ちゃん情報
 相変わらずの志保、というより、重大な情報を受け取る浩之の感情を慮りあえて平静の口調を装った志保の配慮なのだ。そのことが判らぬほど浩之は朴念仁ではない。
「ええと、能登半島の方へ…JRの、七尾駅から、バスです」
 ふうむ、と窓口氏が端末を叩く。
「それならどちらでもおなじ列車に接続ですね。A寝台、B寝台、デラックスシングル、グリーン車、指定席、自由席。驚いた、こんなにたくさんの選択肢をお客様に差し出せるのは実に久しぶりですよ」
 窓口氏は饒舌だ。しかし嫌味ではない。
「見たところ、学生さんですね」
「ええ。できれば出費は避けたいのです」
「こういう時は高い席を売りつけろって上司に言われるんですよ…っと、今のはオフレコで。じゃあこうしましょう、急行能登号の…うん、今日なら自由席でも座れるでしょうなあ。これが一番安いですね。明日日中も行動するなら寝台のほうが良いでしょうけれども…座席なら運賃が7980円、急行料金が1270円。合計が…9250円ですか。寝台特急なら、これに8000円増し、というところですが」
 
 是非もない。浩之は上野発金沢行き、急行「能登」号の乗客となることになった。
 それに、今夜は眠れそうもない。元より寝台車など料金云々以前より乗るつもりなどなかった。
 往復切符の購入も勧められたが、帰りのことなど考えられない浩之は鄭重に断った。

 上越線ホームは意外と込んでいた。サラリーマンの姿が目立つ。発車15分前、急行「能登」が古ぼけてはいてもしなやかな車体をくねらせてホームに入ってきたときには、結構な人数が並んでいた。出張という風には見えず、飲酒後の仕事帰りの人が多い。
 どうやら群馬のほうへ通勤で帰る人たちで混雑するようだ。
 が、座れないというほどではない。浩之はそれほどあわてることなく席を確保することができた。席を立っているものはほとんど見受けられなかった。

 22時33分、定刻に列車は上野駅を離れた。少々窮屈だがこれに乗りさえすれば、他のどんな交通機関よりも早く金沢にたどり着くことができる。

 大宮、熊谷とどんどん人が降り、高崎でどっとサラリーマン風の人たちが吐き出されるととたんに車内は閑散とした。一息ついた浩之は溜め息を付き、一通の封書と、携帯電話を取り出した。封書は…姫川琴音からのものだ。何度も読み返し悲嘆に暮れた封書。丁寧に取り扱ってはいるが、端々が傷んでいる。
 しかし決して邪険にしていたわけではない。大切に肌身はなさず持っていた。そのときは気がつかなかったとはいえ、自分を好いていてくれた人の遺書だ。邪険になどできようはずがない。
 携帯電話のメモリーにはメールが着信していた。…長岡志保からのものだった。
「ヤッホー!ヒロ」
 …書き出しからして少々辟易とする思いだが、そうもいっておれない。彼にとっては恩人だ。
「真面目に勉強してる?運動生理学だっけ、アンタも厄介なというかややこしいもん勉強しているわねえ。まあ、がんばんなさい」
 軽薄な出足に思わず笑い声がこぼれそうになりはっとする。閑散としているとはいえ、車内にはまだ乗客がいるのだ。
「さて、本題の志保ちゃん情報よ。アンタが探してた松原ってコの行き先、判ったわ。別に隠してたわけじゃなかったみたい。でも手がかりが学校のところで切れてて、それで見つかんなかったのね。なんで見つかったって?直接来栖川のアンタの先輩に聞いたのよ。ホラ綾香のお姉さんの芹香さん。ちょっと考え込んだけど、手を回して調べてくれたわ。ほんとアンタって妙なところで人望あんのよね。まあ要するに、松原ってコは来栖川系の病院、というか療養所にいるみたい。メイドロボの開発もかねているらしいけど、立派な病院だそうよ。ただ…回復具合までは、よく判らない。当時は酷い状態だって聞いたけど、それからどうなったのかは、あそこのお嬢様でもわからないみたいで。でも面会はできるみたいよ。だからそれほど酷くないのかもね…」




 切符を買うときには興奮でとても眠れたものではないという風に思っていたのだが、不思議なもので志保からの長いメールをスクロールするたびに浩之の手足は弛緩しぼんやりと眠くなったいた。今見返すまで3度も読み直したメールだ。始めて目にしたときの刺激は薄れ、そうなると少しでも眠っておいて体力を残そうという意識が働いた。
「…気休めかもしれないけれど、きっと大丈夫よ。あんたがいつも言ってたじゃない、なんだっけ、”葵ちゃんは…」
 眠気で危うく携帯を取り落としそうになる。気がつくと列車は駅に停車していた。やや停車時間が長いのか、ホームに出て自動販売機に向かっている数人の乗客は慌てた風はない。
 時計を見ると深夜、2時を回っていた。携帯電話をポケットにしまいこむと浩之は列車の窓に身を預けた。眠ろうと意識すると眠れないものだが、目を閉じると多少気持ちが安らぐ。
 期待より不安の方が大きい。何しろ急な話であり、心の準備も何もなかった。
 ただそれが前もって予告されたものであったとして、果たして平静で入られたかというとそんなこともありえない。ただ冷静になってしまえばこの行動はあまりにも拙速に過ぎたと、それは今の浩之にもわかった。
 別に明朝の飛行機で向かっても良かったのだし、朝を待って電話で確認してからでも、決して遅くはない。
 それでもすぐの出立を選んだのは、慌てふためいたことも有ったが、それよりも。
 いまは少しでも松原葵の近くへと向かいたいのだと。彼女のそばに向かいつつあるという実感が欲しいのだと。
 半覚醒の意識は沈殿し、そして自分の無意識の本心を探った。それは心地よかった、自分の本音に忠実なのは心地よい…。俺が、俺が好きなのは。愛しているのは、たとえ遠く離れ会えなくても。罪を背負っても…。








 はっと目が覚めると夜があけていた。海が見える。日の昇る方向とは反対であったが、晩秋の弱い朝の光を浴びる海は美しかった。瞬く間に景色が変わる。家や道路の合間から、砂浜が見える。
 夏場は海水浴場となるのだろう、その砂浜にはその名残の監視台やら掘っ立て小屋などが見て取れた。寒寒としたこの時期の日本海の荒波とあいまってなんとも侘しい風景といえる。
 一眠りしたことでかえって頭がはっきりしたようだ。浩之は元来寝起きの良いほうではないが、丁度睡眠のリズムが覚醒のタイミングにうまい具合に重なったのだろう。
 列車の朝の放送が始まった。終点金沢にはあと30分ほどで着く。途中さらに乗客は減っており、浩之の乗っている車両には指で数えられるほどの乗客しかいなかった。
 浩之はまた携帯電話を取り出した。昨日読みかけた志保からのメールを、途中まで表示したままでバックライトが消えていた。続きを読み出す。これから向かう目的地の住所が書いてあるのだ。
「…兎に角、随分辺鄙なところよ。ただ鄙びた温泉町があるとかで、環境は良いみたい。そうでないととても静養なんてできないものね。まあ、人目をはばかるというか…そういう立場の人にはうってつけなんじゃないの?」
 志保は言葉を選ばない。対面して話していたら軽く頭を小突きたくなるような文言だが、生憎メールではそうもいかない。もっとも、浩之は志保に対する感謝の念は忘れることはないであろうと思った。また借りが増えちまったな…。
 生憎と返す当てもないのだ。全く志保は如才ないというか要領がいいというか、いいかげんなようでいてこちらが手助けすることは取り立ててない。
 暖かいような、いらだたしいような、複雑な感情を抱いた。それはいささか幼い感傷だったが、それを悪いものとは浩之は思わなかった。
「で、これが住所。電話番号。FAX。地図は添付。言っとくけど、いきなり行こうなんて思わないでよ、とりあえずこの志保ちゃんに…」
 
 はいはい、すいませんね。
 皮肉に浩之は唇を歪めた。窓の外に目をやる。駅名をあらわす看板が通り過ぎる。富山県、という文字が何とか見てとれた。
 すまん志保、もうこんなとこまできちまってるよ。まあこんどなんかおごってやる。あんま高いもんは勘弁だけど。
 
 
 金沢で一両編成のディーゼルカーに乗り換える。駅員に時間を確認すると、此処からでもあと乗換えを含めて3時間はかかるようだ。まだ間があるのに、浩之は早くも緊張を覚えていた。
 とことこと走る列車の遅い歩みに景色を楽しむでもなく、苛つくような時間を過ごす。昨夜から食事をとっていないが空腹はまるで感じなかった。ただ無闇に喉が渇いた。

 列車の終点までに一度乗り換えがあったので、清涼飲料水を買い求める。あっという間に飲み干して浩之は自分の喉が思ったより乾いていたのを知った。
 終点までの列車はやや混み合っていた。ラッシュ時に差し掛かったのだろう、学生が騒いでいる。そんな彼らを浩之は眩しそうに見つめた。その瞳には少しだけの影があったが、それでも暖かいものだった。
 学生たちは二駅ほどで降りた。恐らく近所に彼らの学校があるのだろう。彼らがいなくなると、車内は老婆と二人きりになる。
 ごとごと一両きりのディーゼルカーがはしると、また海が見えてきた。日が高くなった。六尾湾の明るい海は穏やかだった。養殖のいけすだろうか、いくつも桟橋が陸から伸びている。窓外に目をやりながら、浩之はなんとなく胸中の不安が晴れてゆくのを感じた。
 もうすぐ目的地にたどり付く。それは開き直りに似た気持ちがだったのかもしれない。
 浩之はそのままになっていた志保へのメールの返事を打つことにした。
 なにか気の利いたジョークを送り返そうかとも思ったが、どうもうまくまとまらない。結果、「すまん志保、今もう北陸だ」の一言だけ送信し、電源を切ってしまった。志保のあきれて怒り出す表情が目に浮かぶ。しかし。

 今日これからは、葵ちゃんのことだけを考えていたい。

 終着は温泉町を控えた小さな駅で、拍子抜けをした。本州の真ん中に近い場所だが、なんとなく最果てに近いものを感じる。駅前にバスが待っていた。
「来栖川の病院には止まりますか」
 運転手に確認して乗り込む。年かさの運転手ははい、と小さい声を出し、小さく頷いた。態度が悪いというより、口下手らしい。浩之もああそう、どうもと答えただけだった。
 先ほどの老婆が列車から乗り継いできて、乗客がそろった。

 他に客があるわけでない、バスはすぐに発車した。狭い駅前ロータリーを抜け、古色蒼然とした町並みを徐行する。まるで何十年も昔にタイム・スリップしたような町。
 その細い街路を縫うようにバスは走った。乗り継いできた老婆は二つめの停留所で降り、とうとう客は博之だけになった。
 街路の片隅の停留所。あの老婆は何処に帰るのだろう。年頃の孫でもいるのだろうか。ちょうど葵ちゃんくらいの年かさの…
 街路を越えると海岸を蛇行するワインディングをゆっくり走る。山側に温泉街の町並みが見えたがなるほど鄙びた温泉街で驚いた。
 
 ああ、いいところなんだな。
 浩之は安堵した。こんな良いところに住んでいるのなら、少なくとも葵ちゃんは苦痛を受けているはずはない。精神的には癒されているに違いないと思ったのだ。それは―願望に過ぎないことは、浩之にはわかっていたのだが。
 そのワインディングのブラインドコーナーをいくつか越えたろうか、唐突に山手の小高い丘のあたりに白い大きな建物が移った。どうやら病院のような建物である。と、はたしてそれまで海岸沿いを走っていたバスは進路をかえ、その建物のほうへと高度を稼いでいった。



 自由乗降区間というらしい。この区間で乗り降りするのは停留所である必要はないのだ。タクシーに近いシステムだが、乗客が圧倒的に少ないのだろう。それともたんなるサーヴィスなのだろうか。とにかく浩之は目的地の目の前で下車することが出来た。
 無愛想に見えたバスの運転手は浩之の目的地を覚えていてくれた。特に告げずとも病院の送迎用の門にまでバスをつけてくれる。
「ありがとうございました」
 丁寧に一礼して料金を支払うと運転手はそこで始めて控えめに笑った。朴訥な笑いだった。
 油煙をのこしてバスが行く。この次のバスは何時間もあとになる。だが帰りのことなどいまの浩之に気に出来るものではない。
 医療法人、六尾サナトリウム病院。門柱にはそう記されていた。来栖川の名は冠されていない。とはいえ先ほどのバスの運転手にあっさり来栖川の名が通じたところを見ると、どうやら地元では来栖川の息がかかっていることは周知の事実らしい。改めて来た道を振り返る。のどかな漁村と温泉町の風景が広がっていた。
 
 





 
 面会の要求はあっさりと通った。

「ああ、葵ちゃん…いえ、松原さんの。ええと、ご友人?そうですか。お嬢様…ああいえ、芹香様から昨日お電話がありました。藤田…浩之さん。ええ、ええ。うかがっております」
 来意を伝えるまでもない。段取りよく、人のよさそうな中年の看護婦は病室までの略図をコピーした紙を手渡してくれた。病院の中を見渡す。もっと寂れた、おどろおどろしいところではないのかと内心おびえていた浩之であったが、その設備の真新しさ、手入れのよさに感心した。案内標識など、SF映画のセットに近いと感じるほど先鋭的だ。
「なんでしたら、案内をつけましょうか?」
 受付の看護婦はあくまで親切だった。芹香の口添えがあったのかもしれない。後ろに控えた若い看護婦―よく見るとそれは耳にアンテナを装備しており、メイドロボだと知れた―が、命令を待つ姿勢になって瞳をこちらに向けている。
 浩之は苦笑した。
「いえ、方向音痴というわけでもありませんから。この地図があればいけますよ…有難うございます」
 中年の看護婦と、メイドロボの両方に会釈した。どちらもにこりと頷いた。よく出来たメイドロボだ、と浩之は感心した。このところの来栖川のロボット搭載AIはいよいよ精度を増してきている。
 ―と、今はそんなことに気をとられている時ではない。
「ああと、でももし万が一道がわからなければ」
「ええ、ええ。ここの子たちにいくらでも聞いてください。それもまた、彼女たちのにとって大切なことなのです」
 そう、このサナトリウムはメイドロボの実験場でもあるのだ。いや実験場というのは少々冷たい表現だ。研修所、とでも言おうか。とにかく、患者たちが手厚い看護を受けていることは浩之にも見て取れた。
 帰ったら綾香に礼を言わなければ、と浩之は思った。ことは浩之の問題ではなく、あくまで綾香の問題なのだがそれでも綾香に感謝の意を伝えなければ、と。素直に浩之は思った。


 清潔な廊下。酷く痩せた患者が車椅子ですれ違う。まだ幼い少女の面影を残した患者。その様子に浩之は胸が締め付けられる。
 
 浩之がこの2年、血眼で学んだのは医学だった。怠惰、怠慢である意味ペシミスティックであったとすら言える彼の人生は、あの日を境に一変した。そう、あの悪夢のような試合の日を境に。
 自分を責め、嘆き、そして友人の支えで立ちなおり、そうして彼が思い至ったこと。それは、松原葵のいまだ知れぬ行方だった。誰に聞いても、松原葵の親類縁者に問いただしても杳として知れなかった消息。来栖川綾香が徹底的に掩蔽したのは、何も悪意からというわけではない。ひとつには葵の薬物使用の事実。それを司法の手から逃れさせること―来栖川にはそれが可能だった―もうひとつは、浩之の気持ちの問題であった。
 松原葵は、酷い状態だったのだ。それをあの当時の浩之に突きつけるのは酷と言うものだっただろう。そうして、その配慮は正しかったのかもしれない。
 2年たって浩之はようやく葵と向き合えるようになった。
 一流国立大学の医学部合格。並みの苦労ではなかった。そしてそれは葵の今後にかかわるのに十分な資格だったのだ。
 志保の簡単な調査にひっかった、というより志保への意図的なリークがあったのも、綾香たちのほぼ計算の範疇だった。だが浩之がその日のうちに夜行列車で訪れるとは、綾香たちも思っていなかったに違いない。その点で彼女は浩之を見くびっていた。彼は実に情実な男だったのだ。

 だがもはやそうした苦労だの思惑だのは意味を成さない。なぜならもう彼はたどり着いたからだ。探索行の終着点にたどり着いたという意味ではない。其処は起点だった。



 
 あっけなくその部屋は見つかった。個室だった。いやに静かなサナトリウムの中で緊張してその部屋にかかったネームプレートを見る。
 松原葵。ネームプレートを意味もなく盲人のようになぞる。間違いはない。
 しかしそこで問題が発生した。その場に至るまで、初めになんと声をかけたら良いのか浩之は考えてこなかったことに気がつき、軽く慌てた。
 襟元をただし深呼吸をし、気持ちを落ちつかせる。なんと声をかけるかだって?そんなもの、どうでもいい。今はただ、笑顔で葵ちゃんと向き合う。それだけだ。浩之は軽くドアをノックした。
 中からはい、という応答の声があった。葵の声では無いようだった。
「どうぞ」「失礼しま…」
 ドアを開けかけて浩之は思う。畜生、お見舞いの花の一つも買ってきていない。
 が、その瞬時の後悔も目の前の情景、人を見て一瞬で消えうせた。ベッド。その横には看護婦と思しき人。そしてベッドに横たわるのは。
 
 紛れも無い、松原葵であった。
 葵は目を丸く見開いて部屋の入り口を呆然と見つめていた。最初は誰が入ってきたのかといぶかしむ目、そして理解がその目の色に加わり、驚きと、そして。
「よ…よう」
 浩之は軽く右手を上げた。全くしまらない。久しぶりの再開なのに気の聞かない挨拶だった。
「葵ちゃん、元気にしていたか?」
 動揺が重なって、阿呆なことを聞く。
 そのとき初めてその傍らの看護婦が何か葵に処置を施しているのに感づいた。何かの注射を葵の左上膊部に施していたようだ。ガーゼを当てると葵は右手を出してその部位を揉み始めた。もっとも表情は呆然としていて、視線は浩之にくぎ付けになったままだ。呆けている。
 看護婦は処置を終わると静かにその場を辞した。その看護婦の耳にもアンテナが装備されている。恐らくオンラインで受付から来意は伝わっていたのだろう。なにか一言声をかけられたような気もしたが、浩之たちの耳には入っていなかった。
「藤田先輩…」
 奇妙な沈黙の後、やがてぽろぽろと葵の目元から涙がこぼれはじめた。慌てて浩之が駆け寄る。
「ちょ…っ!泣くなよ葵ちゃん、困るぜ、泣かれたりしたら」
 葵の手首をとり頭に手をぽん、と乗せてやる。
 半そでの白い清潔な病院着から伸びていたその手を取って、浩之はぎょっとなった。枯れ木のようにやせ細った葵の腕。静脈まで透き通るほど白く、皮膚に水分は無い。最後に見た葵の腕とはあまりにも異なっていた。
 見れば―頬はこけ、肩も首周りも、鍛え上げる前よりも細く小さくなっていた。2年前の葵が持っていた健康的な魅力も、鍛え上げた後の肉体美もない。いま彼の目の前にいるのは、やせ衰えたただの病人でしかなかった。
 浩之はその頬を撫でてやり、涙を親指で軽く拭ってやった。
 苦労したな、葵ちゃん。辛かったな。すまなかった、そばに居てやれなくて。はげましてやれなくて。様々な言葉が浩之の脳裏を去来した。
 葵の目は喜びと悲しみとが織り交ざった不思議な色をしていたが、しかし透き通った目をしていた。あの最後に見たときの追い詰められた、力強くも痛々しい目とは違っていた。
「先輩…っ!」
 葵は浩之に身を預けてきた。浩之はあわてて病室の床に跪き、その葵の体を同じ目線の高さで受け止めた。薄く、そして軽い体だった。
「もう…心配要らないぜ葵ちゃん。俺がついててやるからな」
 葵の不安や悲しみを和らげてやりたい一心で、浩之は言葉を紡ぐ。気障な言い回しになろうが、格好が悪かろうが、兎に角そうするしかなかった。
「あれからいろいろ勉強した。葵ちゃんの体のことも良くわかっている。だから心配要らない、俺がきっちり面倒見て、葵ちゃんの体を治してやるよ」
 ぐずぐずと泣く葵の口から漏れるのは嗚咽だけだった。
「だからさ、元気出せよ。な、泣いてないで、よく顔を見せてくれ」
 浩之の腕の中でふるふると首を振る葵。
「先輩に、合わせる顔なんて無いです」
「バカなこと言うなよ、葵ちゃんに会うために、葵ちゃんの顔見るためにはるばるやってきたんだぜ。葵ちゃんの顔を見るために―そうだ、俺この春から医大生になったんだぜ。信じられるか?この俺がたった一年浪人しただけでお医者様の卵だぞ」
 そのとき初めて葵は顔を上げて浩之を見た。その純粋な深い黒目がちの大きな瞳は確かに葵の目だった。
「医学…部?」
「そうだ。おっと、お医者様の卵って言っても、医者になるつもりはないんだ。その、なんだ、」
「そうですか、やっぱりすごいですね、藤田先輩は」
 再び葵は目を伏せる。寂しそうな顔をした。
「私は…駄目です。本当に駄目な人間です」
「何言ってんだよ。葵ちゃんは凄いよ。たいしたコだよ、マジでさ」
「そんなことないですっ!」
 怒りではない。葵は泣き叫ぶような悲鳴をあげた。切り裂くような慟哭だった。
「私は酷いことをしました…!坂下先輩を再起不能にして、琴音ちゃんは、死、死、死…」
「葵ちゃん」
「あのときの私は確かに格闘家としては強かった。単純に試合に勝つというだけなら、それはもうでたらめに。でも…私はあまりにも安直でした。藤田先輩も聞いているでしょう?私があの時何をしていたのか」
「お…おう」
 血を吐くような葵の告白は、やせ衰えた彼女の様子とあいまって浩之を圧倒した。半ば予期していたこととはいえ、この落ち着いた環境にもかかわらず葵は酷い苦痛の中にいたのだ。肉体的にというだけでなく、精神的にも。
「私は自ら望んで薬物に頼ったんです。琴音ちゃんは私に隠していたように言ってたのでしょうけど、私だってそのくらいのことはわかっているんです。でも」
 涙声が痛々しい。しかし浩之は目を逸らさなかった。
「どうしても、やめられなかった。力を手に入れると、それを逃すのが怖くなった。衰えるのが何より怖くて、そして少しでも強い力が欲しくなった。そして、そして」
 葵が掌を上に返し自分の両腕を持ち上げてみせる。細い、折れそうなほど細い腕。
「この有様です」
 葵の体は徹底的に破壊されていた。今の浩之は、琴音がつけていた葵に関するノートで大体の葵の今の状態は理解していた。詳細なノートは遺書のほかに浩之に届けられたもので、その量はおよそ大学ノート20冊分。その中身を勉学とともに解析するにつれ、浩之には恐怖が取り付いていった。琴音をうらもうとしたことすらあったのだ。
 ステロイドの投与を抑えられた葵の筋力は急速に衰え、代謝は不活発になる。そして内臓は痛めつけられている。肝臓、腎臓といった臓器が特に酷く機能を損なっていることだろう。
 そしてホルモンを調節する機能はほとんど損なわれており、自分でエストロゲンを生産することができない。つまり、一生薬を使いつづけなければならないのだ。もし使用を止めたら、男性ホルモンが過剰になり、一気に男性化現象が進行する。一度使い出せば、死ぬまで止める事のできないまさに地獄の車…
 それが安易に力を得る道を求めた者への罰だった。
「綾香さんの言ったとおりでした」
 ぐずぐずと鼻水をすすりながら葵が自嘲気味に笑う。
「私は、弱い。弱すぎました」
 ぽつりといった。その言葉が浩之の耳朶を打った瞬間、浩之は自分の成すべきことを悟った。自分が此処にいる理由を。その一言。その言葉は間違っているんだ。その間違いを正すことこそほんとうの俺たちのスタートじゃないか!
「バカな事を言うな、葵ちゃん」
 腹に力を込めて言う。
「葵ちゃんは再起する。俺が保証する。そのために必要なことも学ぶ。俺の人生の残り全てを葵ちゃんのために使う」
 葵が目をこすりながら浩之を見た。その葵の頬をがっちりと両の掌で包むと、浩之は葵と視線を絡めた。
「社会復帰なんてケチなことを言ってるんじゃないぞ。格闘技の世界へ復活するんだ。またやり直すんだ、葵ちゃんならきっとできる」
 尚も気弱そうに葵は目を泣き腫らしている。そんな葵を見ればみるほど浩之の気持ちは言葉となって溢れ出した。
「葵ちゃんは、強い」
 決して疑うことの無い眼差し、口調。それは浩之が葵から学んだものだった。
「葵ちゃんは強い!葵ちゃんは強い!葵ちゃんは強い!」
 それは信仰にも似た浩之の願いであり、そして確信だった。彼にとって松原葵とはそういう存在だったのだ。葵から受けたものを、返す。それは彼にとって当然の行為で。
「葵ちゃんは強い!葵ちゃんは強い!葵ちゃんは強い!葵ちゃんは強い!」
 病院にあるまじき大声で浩之は連呼した。叫べば叫ぶほど、繰り返すほどに力を増す呪文のように。
 そして葵にとり付いた呪いがいつかとけるように祈りながら。
 葵の涙が、悲嘆のそれから暖かい何かに替わった。
 最後に、大きく浩之は息を吸い込んだ。そして。
「葵ちゃんは、絶対につよおおおい!」

 先ほどの看護ロボットが大きな声に、何事かとそっと様子を見に廊下から覗き込み、中の様子を見てそっとドアを閉めた。ぱたん、という控えめな音がした後は、病室はもとの静寂を取り戻した。
 二人は何も言わず抱き合っていた。浩之は葵のやせ細った体を気遣いながら。葵は弱弱しくも精一杯に。
 季節は晩秋。もうすぐこの地は雪で閉ざされるという。そして春を迎えるころ、戦いは始まる。葵ちゃんの真の戦い、まず生活に必要な筋力を取り戻すこと。それが終われば、さらにもっと…。それは気の長くなるような道のりだったが、きっと彼女はやり遂げる。




 



 だって、葵ちゃんは強いから。






                       完