2人だけの科学部(その2)

 雪城さんは無欲の人だ。真面目すぎて損をする人だと思う。
 彼女が抱えている重篤な問題について気が付いているのは僕だけではないだろう。だが誰も対策をしようとはしなかった。そして彼女が理不尽に受け続けている苦痛を和らげようとすらしなかった。
 あるいは誰も認めたくないのだろうか。雪城さんがこんな風になってしまったという事実を。
 
 科学部の部員はもはや僕と彼女の二人になってしまった。一時は部員数は20人を超え、文化系のクラブとしては最大級の規模を誇っていたのだ。それが今では、放課後の理科実験室はがらんどうの空虚な空間に成り果てている。このうら寂しさはまるで廃墟のよう。

 雪城さんはパソコンを引っ張り出し、かちゃかちゃとキーボードを叩いている。その真剣そのものの眼差しは美しい。
 僕は雪城さんからビーカーと濾紙、漏斗を渡され、ビーカーの中の液体から何かを取り出す作業を続けている。何の作業かはよくわからない。雪城さんはずいぶんと噛み砕いて説明をしてくれたのだが、ただ何かの触媒を取り出す、ということしか頭に残らなかった。

 まあ別に良いのだ。単純作業は苦手でも嫌いでもなかった。それに、少し視線を上げただけで雪城さんの横顔を眺めることが出来る。それはとても幸せだ、特に何かに熱中している彼女を見ることが出来るのは。まるで一番輝いていたころの、正当な評価を受けていたころの彼女のようじゃないか。
 
 キーボードの打鍵音に混じって、彼女の呟きが聞こえる。
「あった…ここが担当の警備会社…。へえ、大手じゃないんだ。そのほうが管理しやすい、か。それとも国の息がかかっているのかしらね…」
 雪城さんはふと手を休めて言った。
「村田君は体を動かしているほうがいいんじゃないの?」
 唐突な質問だった。これは以前からの彼女の癖だ。
「どうして?」
 僕は聞き返すしかない。
「だって、前までのあなたなら考えられないもの、部屋の中でなにか実験の準備をしているなんて」
 くすくすと笑う雪城さん。表情からは何も読み取れないが、きっと彼女は気が付いているのだろう。
 僕は努めて平板な口調で、ビーカーを傾ける手に気をつけながら言った。
「いや、楽しいよ。人類の叡智に触れるのは」
「ほんとうに?」
「ほんとうだよ。それにどうせ俺は足首痛めちゃってるし」
「その件だけど、あれって藤村君が…」
「もう未練はないよ」
 実のところ僕の足は部活のレギュラー争いでポジションがかぶった上級生につぶされたのだけれど、それを言っても仕方がない。当時の失意はわれながら酷いものがあったが、どちらにしろ雪城さんがこんな状態になってしまったのなら、きっと今のカタチに落ち着いていると思う。
「それに才能もなかったし。その点、実験や研究は良い。きちんと努力の積み重ねがデータとして反映される」
「でも名誉も富も得られず失意のうちに死んだ科学者もいる。というよりもそんな人たちの屍の山よ、科学なんて」
 彼女から時折、こらえきれぬのか湧き出してくる抑うつ的な表現。以前の彼女はもっとポジティブだった。
 微妙なのだ。彼女は普通に暮らすことも出来る。ただ、ほんのすこしずれてしまった。まるでこの世界に重なった何処かへ行ってしまったようなのだ。そしてそのずれが彼女にとって耐え難くなったとき起こるのは、酷い災厄だ。
 暴力。
 雪城さんにとって一番縁遠く、そして自分にそれが課せられることには耐えられないだろう。だからその暴力の矛先は。

「別にこれで食ってくわけじゃないもの。それより僕は」
 言いかけてはっとなる。ああ、危うく雪城さんへの思いを語ってしまうところだった。
 それはおこがましいことなのだと思う。彼女を援ける下心がみえみえだと思う。恥ずかしくてとても口に出せたものではない。
「えーと、僕は」
「僕は?」
「僕は、僕は」
 雪城さんが不思議そうな顔で見ている。なにか言わないと。何か。
「僕は包茎です」
 一拍の間。
「知ってる」
 雪城さんは無表情に答えるとまたかたかたとキーボードを叩き出した。
(ほっ…放置プレイ!下ネタなのに無反応!放置!)
 ちょっと嬉しい僕だった。
「パスワード…パスワード…」
 雪城さんは画面に向かって何かをつぶやき続ける。
「アドミン…アドミニストレーター…0123…うーん…ここの社長の名前は…」
 どうも何かのログイン画面で止まっているらしい。というか雪城さんはいったい何をやっているんだろう。