2人だけの科学部(その8)

 午後の授業は欠席した。
 さすがに鎖骨が痛むが、折れてはいないようだ。ラクロスのスティックで殴られたほうの肩をぐるぐると廻す。おそらく腹は打ち身だらけだろうが、藤村も美墨も僕の顔は一切殴らなかったので、制服を着ている分にはまるで怪我が目立たない。
 古傷の足首は何度も踏みつけられてまた痛くなっているわ腹はきりきりと痛むは吐き気はするわと散々だった。結局立ち上がることも出来ず体育館の裏でなんとか校舎に寄りかかって昼から終業のチャイムが鳴るまで過ごした。
 何とか立ち上がり、通学鞄もなにも打っ棄って帰宅しようかと思った。しかし校門の近くまでやってきたところで学校を振り返ると、屋上に設置されたソーラーパネルが一際目を惹く特別教室棟が目に入った。その最上階、放課後は科学部の部室となっている生物・地学教室の窓は全て閉ざされていた。
 とはいえ、今日も雪城さんが其処にいることは間違いない。
 そうだ、友人も課外活動も立場や存在意義や、何もかも喪い彼女はたった一人、危うく其処にしがみついているのだ。昨日も今日も其処だけが彼女の居場所なのだ、そう考えるといても経ってもいられなくなった。

 ふと藤村と美墨にボコられた痛みとか惨めさとかを慰めてもらおうというか、そういう邪な感情が自分にあるような気がしてきて、自分を叱り飛ばした。そんなつもりではないのだ。

 痛みに何度もうめき、息を荒げながら何とか部室にたどり着いた。
「雪城さん、遅くなってごめん。ああいや、ここに来る途中に道が分からなくて困っていたおばあさんがいてね。なんでも何年ぶりかで息子さんに会いにきたというのだけれど、これがまた悲しい話で…」

 あらかじめ準備しておいた言い訳をいいながら扉を開けてみた。
「あれ?雪城さん?」
 が、誰もいない。
「なんだ、まだ来てないのか…?」
 実験用の流しのついた大きな机が居並ぶ教室の奥へとあゆみを進めた。
 ―あ。
 
 雪城さんのものと思しき鞄があった。その鞄は乱暴に机の上に放り投げられている。
「間違いない、雪城さんの鞄だ」
 その鞄は少し中央部に染みがあり、その形に見覚えがあったのだ。
 その染みというのも、雪城さんの鞄は何回か牛乳に漬け込まれたりしているからで、その辺りの事情を話し出すと長くなるのだけれど、まあとにかく雪城さんの所持品というのはたいていクラスの連中に一度はなにかされている。
 教科書など全てのそれの表紙の裏の遊びのページに女性器名称を書き込まれたり、心無い悪戯をされていた。
 そういうものを目にしたときの雪城さんは恐ろしく無表情で、それは悲しみも怒りもない上等の陶磁器のような本物の虚無で、そんな彼女の横顔は吸い込まれるような美しさを持っているのだが、今はそういうことを述べても仕方がないだろう。
 とにかく雪城さんはここに鞄だけ置きに来たと見える。
「他に行くところなんて、無いのにな?」
 そう、僕と同じで彼女にはもう行くところなど無いのだ。
 
 不意に校舎の外からキンッ、といういい音が聞こえてきた。雑踏のざわめき、若者たちの掛け声。ベローネ学園高等部は今日も活気に満ち溢れていた。
 でも、僕は違和感を感じてしまう。そうだ、何もかもおかしいじゃないか。
 窓のそばに行って階下を見下ろす。
 僕と雪城さんには行き場所はない。それはわかっている。
 じゃあ、彼らは。何処に行くというんだ?
 この違和感。サッカーを不当なやり方で出来なくされようが、つい今しがたのように殴られ蹴られ様が、いたいのは痛いし無様に声を上げるけれども、心のどこかは醒めていてどうしようもない。
 この違和感は救いようが無いのだ。

 乱暴に置かれていた鞄は、中身が飛び出さないようベルトを掛けてあったのだが、どうやらよほど慌てていたようでそのベルトが外れていた。中から紙切れが覗いている。
 なにかのプリントアウトのようなのだけど、日本語とアルファベットが混じっていて良くわからない。爆縮、という目にしたことのない言葉や、なにか物理とか地学とかの授業の時に習った公式、元素記号

 他のプリントアウトには、発火装置のリスト、無線式、人感センサー式、スイッチ式…。対解体、対液化窒素防御…

 一体雪城さんは何を作ろうというだろうか?
 其処まで考えてはっとした。いけない、これじゃあ覗きじゃないか!
 僕は慌てて目をそらした。ここでのことは見なかったことにしよう。そう思っていると人気のない廊下を誰かが走ってくる音が聞こえた、上履きが激しく地面に接してそのたびにぱちんぱちんと良い音がする。
 ―と。
「村田君!」
 雪城さんだった。
「どうしたの雪城さん、そんなに慌てて」
 いや本当に、雪城さんは血相をかえていた。ひろいおでこに乱れた髪がかかっている。顔色がうっすら上気していて赤い。
「どうしたのじゃないわ!全く昼から何処に行っていたのよ!他の子がさぼりだって行ってたけれどもあなたがそんなことするわけないじゃないの!」
「あー、うん。いやね、サボってたんだよ」
 藤村にボコにされていた、なんておくびにも出さない。
「もうっ!」
 雪城さんは泣き出してしまった。教室の奥まで行って一番後ろの席に蹲る。
 それを見て、ああ、本当に心配してくれているんだ、と僕はすこしうれしくなり、けれどもすまないという気持ちも同時にあって。
 ちょっと声を掛けられなかった。