2人だけの科学部(その9)

 雪城さんは僕を疑いの目で見ていた。ただその表情は僕を責めるというよりむしろ僕に寄りかかってくるようで、とても弱弱しかった。まるで見捨てられることを恐れているようにも見えた。
「村田君…正直に言って。喧嘩でもしたの?」
 僕の非常に稚拙で陳腐な言い訳…”階段で転んだ”は数秒で却下された。これは転倒によってできる怪我ではない、と。そのとき雪城さんは僕のおなかや胸の辺りをまさぐった。くすぐったくて、そして官能的な動作だったがすぐにその動きは痛みに変わった。
「イタっ」
 と、声に出してしまったと思ったのだ。
 雪城さんいわく、こける時には自然と体が丸まるので体の正面に打撲を受けることは少ないそうだ。それが何箇所も存在する。
 雪城さんは上目遣いにじっと僕を見ている。その真摯な瞳の前でうそをつきとおすことに、僕は罪悪感すら感じた。
「本当だよ」
 ヘンに力が篭った。間違いない、もううそだとばれている。それでも僕はその嘘をつき続けなければならない。
「特殊なこけ方をしたからね。ホラ、僕って左足をかばう癖があるでしょ?だからだと思う。正面から…」
「でも顔はなんとも無いじゃない」
「うん」
 僕は黙り込んだ。雪城さんもだ。二人して夕方の特別教室で見詰め合う。もちろんロマンチックさのかけらもない。
「とにかくこれ、自爆だよ自爆。いやあ、ホント体が鈍っちゃって。ちょっとは体動かさないとデブになってしまうよ」
 僕は視線を外すとおどけて見せた。だが雪城さんは表情を変えない。哀しげな瞳で僕を見上げている。
 そして、一言一言を。
 たましいを搾り出すような口調で紡いだ。
「なぎさ、ね」
 それは正鵠を射ていた。まさに事実を雪城さんは言い当てていた。
「私とかかわったから…私と一緒にいるからだわ。なぎさがやったのね?ううん、きっと…そう、藤村君をけしかけて…」
「違うよ」
 僕はなるべく驚きが顔に出ないように気をつけ、優しく言った。
「そういうんじゃあ、ないよ」
 その言葉を聞いた雪城さんは急にどん、と僕のおなかの辺り、ちょうど藤村が思い切り蹴り上げてくれたおかげでひときわ痛むあたりを手のひらで押してきた。
 悲鳴を上げそうになるが、我慢する。
「僕を自由にしていいのは雪城さんだけだよ。それ以外の奴が僕に何をしたって、まるで無意味だもの。だって何も感じないもの。だからそんな仮定は無意味だよ」
 何を言っても、雪城さんは悲しげに顔をゆがめるだけだった。さあ、植物に水をやろう、と僕が言ってももう何も言わない。まいったな、また放置プレイかい?おどけて見せても雪城さんは言葉を返さない。
 雪城さんは心根はサディストではないのだ。ただ男性やその生殖器などには異常なまでの敵意を抱いていて、それは僕が男性である以上受け止めてあげなくてはならない。しかし心の奥底はとても優しく、思い上がりかもしれないがあえて言えば、おそらく僕を愛してくれていた。
 このあたりの複雑に入り組んだ彼女の心理と行動は、彼女自身にも説明がつけられないだろう。ただ彼女の中ではそれらは矛盾無く存在できるのだ。
 雪城さんが彼女が進めている仕事に戻ったのは、それから1時間もしてからだった。
 そのとき彼女は一言だけ発した言葉は、小さいながらも僕の耳に届いて僕を戦慄させた。
 机に向かう小さな唇がささやいたその言葉、それは―

 

 
 

「滅ぼしてやる」