2人だけの科学部(その13)
雪城さんはこの広い家に一人で住んでいる。以前、彼女の周りにはもっとたくさんの笑いがあり、安らぎがあった。それは美しい世界だった。今の彼女にとって、過去のその世界はどう思えるのだろうか。
今の世界は―少なくとも、彼女にとって今の世界は、控えめに言って地獄だろう。それとも無意味の羅列だろうか。狂気という信号が彼女の脳内ですべての意味の結合を解き、すべてを無意味にしているのではないのだろうか。
僕を踏みつけ痛めつける彼女も、僕のちょっとした怪我をいたわる彼女もやはり彼女なのだ。それは二重人格だとか、そういったものではない。その二つ、端的にいえば”やさしい雪城さん”と”恐ろしい雪城さん”は並立しているのだ。
なぜならそのどちらも、僕にとっては…。
いつもながら、雪城さんの立ててくれた茶は美味い。
「今日は、すこし味が違うね」
「そうお?」
屈託のない表情はいまや僕だけのためにある。昼間僕を踏みつけた彼女の荘厳なまでに恐ろしいあの表情とは異なって。僕は美術の教科書で見た、阿修羅観音の彫像を思い出した。恐ろしい顔と優しい顔。
そして自嘲とともに否定する。
(雪城さんは神だ。仏ではない)
うっすらと笑って僕は雪城さんに応じた。
「うん。なんだかスースーするよ」
「嫌かしら」
「ううん、美味しい」
もとより僕に雪城さんに振舞われたものを否定する気持ちなど一切ない。
彼女の一切を拒まないのだ。
がさがさ。
居間のちゃぶ台に雪城さんはなにか図面を広げだした。邪魔になりそうだった急須と湯飲みをどける僕に、雪城さんは小さく言う。
「薬湯よ。傷に良いものが入っているから。温まるでしょう」
僕はその言葉に答えることができなかった。僕が怪我をしていることを彼女に認めているわけではないから。
少し滑稽だった。なにかしら、意地のようなものをはっているのか。自分でもよくわからない。
「これ―地図?」
「そうよ。国土地理院発行、25000分の1地形図」
真っ白な地図は何処かの海岸線のようなものを描いている。夕闇が迫る薄暗い部屋に雪城さんは電気スタンドを灯した。
「どこの地図?」
「新潟県と富山県の県境、といったところね。親不知。わかるかしら?」
雪城さんがつい、と僕の隣に寄ってきた。雪城さんの髪からいい匂いがしてどきりとする。
僕は緊張を隠して、小さく首を横に振った。
「わからないよ。ええと、日本海、でいいのかな」
雪城さんが頷く。
「ふうん」
「地図にも見方があってね。等高線を浮き立たせて、立体にするのよ。ちょっと慣れが必要だけれど、鳥瞰図のように見えてくる」
僕はしげしげと地図に見入った。地図を見るにも見方があるといわれても、僕はそういうことに疎かった。ただ地図に刻まれた海岸線が夏の海水浴場を思い出させた。そして日向を思わせる雪城さんの匂い。
無論彼女はそうした僕の甘い感傷めいた気持ちを斟酌することはなかった。
「ここをね、明日の夜」
彼女は耳慣れない単語を発した。ただ、ソレを問い直すことはできなかった。それ以上話が進むことは恐ろしいとしか思えなかったのだ。
「−−−−−が通るの」
僕はぼんやりとそれを聞いていた。
「で、私たちはそれを奪う。方法はいたって簡単よ」
雪城さんは話を進めるにつれ饒舌になって行くようだ。嬉々としているその姿はまるで昔の彼女のようで僕は嬉しかった。
「聞いている?村田君」
「え?ああ、うん」
われに返ると雪城さんは地図に何かボールペンで書き込みながら僕の顔を覗き込んでいた。それはとても愛らしいしぐさで僕の胸をどきりとさせる。彼女は時に無自覚にこういう所作をするのだ、まったく油断ならない。
「いいわね。ここと、ここ。それからここを」
長い長いトンネルの出入り口に雪城さんはボールペンで丸をつけて囲んだ。親不知トンネルと書いてある。ほんの少しだけ地上に出て、また山の中にもぐる。土竜のようだ。
僕の思考はいつものように間が抜けていた、けれど雪城さんの言葉は凶器のように鋭かった。
「爆破します」
「ばっ…!」
雪城さんが意外そうな顔で、そしてすぐにむっとした表情になって言う。
「そうよ。そうしないと足止めできないでしょう」
「いやそうじゃなくて」
トンネルの出入り口を爆破って…!
「なんというか、その。地域の皆さんに物凄く迷惑がかかるんじゃない?いや地域というかこれはもう国益が」
「もう、何を聞いているの村田君。今日あなたを家に呼んだのはお茶を入れてあげるためだけじゃないのよ?」
雪城さんは実にいい笑顔をしている。その言葉、単語を口にするのは彼女にとって実に楽しいことなのだろう。そのことはわかった。
「私たちの目標は、敦賀に運び込まれる高速増殖炉用の燃料を奪うことよ」
「こうそく…なに?」
ため息をつく雪城さん。やがて噛んで含ませるように、僕にささやいた。
「特殊な原発の燃料。元素記号PU。物理の授業で習ったでしょう」
「それって…」
「プルトニウムよ」
そのとき、雪城さんの体が軽く震えたのを僕は見た。間違いない、彼女はそれを口にするときは実に幸せそうな声音を使う。
「何の材料かはわかっているわよねえ」
僕は身動きができなかった。完全に雪城さんに魅入られていたのだ。
「まとめて使うもよし。でもたとえばちょっと粉末にして市街地に撒いても…うふふっ!1グラムで440万人を肺癌にすることもできるの!」
雪城さんの瞳。少し瞳孔が散大している。指先は何かをつかもうとしているように震え、正座した膝頭も軽く揺れていた。
「素晴らしいわ。最高よ!どう、たとえば学校の給水塔にほんのすこうし粉末を入れてあげるだけで。プールに。いいえ、校庭にただ埋めてあげるだけでも良い。それだけでみんな手や足を変な風に捻じ曲げて、苦しみ悶えて死んでゆくの。うふふ、うふふ」
僕はただ呆然と彼女を見ていた。雪城さんも僕のほうを見ているのだけれど、視線は合っていない。ただ何処か遠いところを彼女は見ていて、そうしてそれを見つけてうっとりとしている。
「死ねばいい、死ねばいい、死ねばいい」
そうつぶやくと雪城さんは両手をぐっと胸の前で組んだ。一度瞳を閉じる。僕は彼女がいましゃべっている間まったく瞬きをしていなかったことに気がついた。
もう一度彼女が瞳を開くと、今度は明確な意思の光が宿っていた。
「雪城さん」
僕は彼女に語りかけた。ようやく呪縛が解けたのだ。
「僕は―」
何を迷うことがある。僕は彼女が何をするのか、なんてとうに気がついていたのだ。彼女が持ち運んでいた図面、大きな実験機材。
普段の彼女の言動。
僕にはわかっていたのだ。具体的な手段は示さなかったけれど、彼女が何を望んでいるかなんてわかりきっていた。
「僕は、何をすれば良い?」
僕は恐ろしいことに手を貸そうとしていることも、何もかもきちんと理解したうえで彼女に従うことにした。
雪城さんは満足げに頷くと喜んで地図に僕の名を書き込んだ。その横に自分の名も書き添える。村田、雪城と並んでトンネルの脇に名前が書かれているのはすこし僕の心を浮き立たせた。