名雪にもっとやさしくしてあげて(4)

 相沢祐一は、玄関に足を踏み入れた瞬間に無意識下でこの家の異変を捉えていた。
 根拠があってのものではない。母一人、子一人の非常に小さな単位の家庭である。本来なら異変など起こりようも無い。十数年来、彼女らは仲睦まじく支えあって生きてきたのだ、実に洗練されたさりげない思いやりとともに。
 それがこのほんの数十日かの間に変質してしまった。
 はじめその異変について、まるで視覚で感じ取れるものを見出すことは出来なかった。だが、落ち着いてこの家のあるじと向き合いながらそれとなく家屋の様子をたどってみると、そこここに違和感を感じることになった。
「寒かったでしょう。祐一さん、お疲れではありませんか?」
 リビングのソファに腰掛け、暖かなコーヒーを薦める水瀬秋子の表情は暗く、少しやつれたようにすら思える。そして何より、今は首を覆う部屋着を身につけているため隠れてはいるが、例の青痣。手も少し荒れている。
 荒れていると言えば。部屋は全体的に薄汚れていて、埃っぽい。壁紙にすこし疵が入っていたり、よく名雪が抱いていたクッションの置き方も乱雑で、床に放り出されている有様だ。
 そしてなんだか、饐えたにおいがする。咽るほどではないが、なんとなく、生臭い。

 無論、それを非難するつもりなど祐一には毛頭ない。祐一と秋子の関係は、戯れた言い方をすれば師弟であるとか、主従であるとか。
 ありていに言ってしまえば親子に近い。それも祐一が絶対的な敬慕と尊敬の念を抱いている、そうした意味での親子関係だ。実の親たちが家を空けがちだった所為なのだろうか、この優しく美しい叔母を心底慕っているのは自分の女々しい部分―マザー・コンプレックスのような何か、を満たす対象として捕らえているのかもしれない。

 故に、今の秋子の様子に非常に大きな関心を寄せ、役に立ちたいと願うのは、祐一にとって自然なことだった。




 
 


「失格?名雪が?」
 秋子の話は少しためらいがちではあったが、明快だった。
 彼女の娘の様子がおかしくなったこと。その原因。
 それはどうも、名雪が参加した部活の大会であるようだ、と秋子は言った。
「――ええ。私も、腑に落ちないのですが…」
「しかしなんだって、また」
 名雪の所属は陸上部である。それも、部長と言う立場であり、後輩はもとより同級生、教師の新任も厚い。その名雪が、陸上の大会で失格処分を受けたと言うのだ。
「なんだってまた」
「その」
 秋子は視線をそらした。つい、と紅茶のカップの淵をなぞる。そしてカップを口に運び、唇を湿らせた。
「薬物を使用しているという疑いが」
 祐一はあまりのことに目を見開いた。一拍の間をおき、
「はあ?」
 我が耳を疑ったのは、言うまでもない。名雪と薬物と言うのはあ、あまりにもそぐわない取り合わせだった。
「祐一さんには、きっと名雪も話していなかったと思うのですけれども…」
 秋子の視線は伏せられたままだ。