名雪にもっとやさしくしてあげて(5)

 ナルコレプシー
 最初に秋子からその言葉を聞いたとき、祐一は正確に問い返すことができなかった。
「眠り病、とでも言うのでしょうか…」
 秋子の説明もどことなく自信なさげである。だが、冗談の類であるとは思えなかった。その場にそぐわない冗談、というのは秋子は口にしない性質だった。
 不意に眠り込む、という病があるのだという。確かに名雪の居眠り、寝起きの悪さは上記を逸していたが、それにしても酷すぎたのは祐一も認めるところだった。
 歩いている時であろうと、食事中であろうと眠り込んでしまう名雪
 秋子は一冊の冊子を取り出した。図書館で借りてきたのであろうか、分厚い本だった。どうやらその眠り病の本らしい。
 ”ナルコレプシーの眠さは、健常者の「丸3日間睡眠をとらずに過ごした後に難しい数学の問題に取り組んでいる」状態に相当するといわれ、通常では考えられないような状況においても発作的に眠り込んでしまいます。
歩いている時、食事中、上司との面談中、電話の最中、試験の最中、歯の治療を受けているとき…”

「確かに…」
 秋子が細い指でその本の要所を指でなぞる。ことごとくが名雪の症状に一致していた。
「あいつのあれは…病気だったのか」
「ええ…」
 秋子の表情は暗い。
「しかし原因は何なんです?治らないもんなんですか?」
「原因は、よくわからないそうです。ただ、過度のストレスと遺伝によるものだとかで。長い年月を経て、症状は軽くなるそうなんですが…」
 ふーむ、と祐一は腕組みをした。
 そして、はた、と思いつく。
「ちょっと待ってください、秋子さん。名雪がそんな奇病にかかっていたとしてですよ、なんで競技失格になるんですか?」
「それが…」
 秋子の表情に揺らぎが見える。どこまで深く話すべきかを推し量っているように感じる。
 少しの間。およそ10秒にも満たない。
「その、病気のために使う薬物が、その…いけなかったとかで」
 まぜっかえそうとして、祐一はどこかで読んだ記事−スポーツ雑誌だったか、新聞だったか。オリンピックに出る選手は、風邪薬や何かも飲むことができないという。市販の薬物の中に、ドーピングに引っかかるものが混ざっているからだ。
 だから、祐一の秋子の話に対する理解は比較的早かった。
「つまり、意図せず飲んだ薬物が違反になってしまった、と…?」
 秋子はええ、と頷いたきり黙ってしまった。
 
 やはり、秋子の様子はおかしい。視線は伏せられたまま、祐一の方を見ようとしない。そして落ち着きなく床をさまよっている。
 
 祐一の心の中に、ある考えが浮かんだ。
(俺は)
(俺は、すべてを思い出したんだろうか。7年前の記憶、そのすべてを)
 祐一は愕然とした。
(俺は思い出していない!この人のことを、秋子さんのことを!秋子さんの旦那さんはどんな人だったんだ?この人は年は幾つで、何の仕事をしている?)
 目の前の秋子は憔悴したまま、ぼそぼそと名雪について語った。祐一が家を離れて以来素行が怪しく、部屋に閉じこもりがちだったこと。そして、そして…
 何かを秋子さんは隠している。なんとはなし、祐一は感じた。そして、自分はそれを思い出さなければならないと感じた。
 舞やあゆも、祐一が記憶を取り戻すことで救うことができたのだ。だから秋子もそうに違いない。
 それは祐一の思い上がりであるかもしれないのに、彼のこころにはなにかそれが信仰のように覆いかぶさっていたのだ。


 幸い、名雪は明日帰ってくるという。そうしたら、明日は迎えに行って様子を見て、一緒に学校に行ってやろう。
 月宮あゆは…とりあえず、後回しだ。きっとあゆもわかってくれるだろう。ほかならぬ名雪のためなのだ。