晴子さんからの手紙(1)

海岸沿いの一軒家に、狂人が住んでいるらしいと言ううわさがたったのはつい一週間ほど前だった。きちがいなどと言うものはこの町では珍しくない。誰かが招くのかそれともこの町の風土がよろしくないのか。あるいは十年ほど前に立った原子力発電所がよくないのだ、などとまことしやかに言うものもいる。近隣の町の者からは"きちがい集結地""フリークスタウン"などと陰口を叩かれている始末だ。
俺が小学生のころの話だ。学校でアンケートを書かされたことがある。町の役場のアンケートだが設問がなかなかふるっていて、この町をどう思うとかどうしたいとか、まったくもってこの手のアンケートと言うやつはどうしてこう愚問を並べ立てられるのかと感心するほどだった。
少し話が横に逸れたが、そのアンケートの項目の一つに"将来この町に住みたいか"という個所があった。勿論俺は"いいえ"、にチェックを入れた。一も二もない、こんな町に住みたい奴などいるものか。俺のクラスメイトたちにきいてもやはり"はい"、にチェックを入れたやつはいなかった。まったくもって誰もがその問いに"いいえ"なのだ。  Noと言える日本、アハハハ。
何しろ原発と道路工事くらいしか産業の無い町だ。年々海の魚は背中が曲がったものやら尾鰭が二つあるものやら、そうしたものが増えてきており漁業自体が成り立たなくなりつつあった。まさにフリークスタウンだ。アハハハハハ。
結局この町で生きていくには電力会社の僕となるか、あとは公務員になるか(それもまあほとんど結果は同じなのだが)。そのくらいしか選択肢は無い。
大阪まで隣町から高速バスで三時間。通勤するとなるとかなりつらいものがあるが、たとえば和歌山あたりに居を構えれば大阪あたりまで勤めに出ることもできるし、なにより故郷を捨てたという謗りを受けることも無い。これは結構魅力的な選択肢のようで、近年この町を離れるものたちは実際そうしているものも多いと聞く。
そうしたあまり芳しくない空気が満ちていて、この町にはきちがいであるとか、○○憑きであるとかそうしたものがしょっちゅうたち現れては消えて行くのだ。全く持って厄介なことだ。

不気味で、なおかつこの町ではありふれたうわさを耳にしつつ俺は高校を後にした。学生服姿の俺は夏休み期間に入った通学路では少々奇異に見えたことだろう。別段クラブ活動をやるような殊勝なこころなど持ち合わせていない俺が何故こうやって制服を着込んで学校に登校しているのかと言うと、これが情けないことに補習を受けさせられていたのである.
補習と言うのはいわゆる、劣等生とか怠慢なやつとか、病気で定期試験を受けられなかった不幸なやつとか、まああと補習期間が終わったら小豆島だとか、貧相なところだと近江舞子だとかそういったところで処女だの童貞だのを喪失し、いやそうした純潔(ハハハ)を捧げるような一線などとっくのとうに過ぎており、すっかり向こう岸へダイヴしてマリファナだのSだのMDMAだのなんだの、もっとあれな薬だの、射精したり受胎したり人を刺したり恐喝したりして成人式前に子供をもうけた挙句テレヴィにすりガラス越しに登場し(声はもちろんあのキンキンの、ヘリウムを喉に流し込んだそれだ)、「でも彼、時々やさしいんです」などと愚劣な理由で家庭内暴力を受け入れ次世代に不幸な遺伝子を引き継ぐ連中までまとめて受講する、例のあれだ。
そして勿論俺は長々書き付けた後者のような馬鹿のステレオタイプではなく、クラスでも目立たない、女子からは疎まれ男子からは一部とのみ会話し一部には邪険にされ、暗いだのなんだの言われる癖に勉強はできないと言う、まさに愚鈍を絵に描いたような劣等生だ。
もし俺がそうした不幸な遺伝子の持ち主だったら、「真面目にやれば実は…」などと言ってもらえるやも知れないが、俺ときたら部活もやらず塾にも行かず、ただ家に帰ればテレビゲームだのなんだのと、一銭にもならない遊戯にうつつを抜かし、両親兄弟からは邪険にされる毎日だ。
昨日の夜などは惨憺たるものだった。夕食の時、貧相なテーブルで貧相な食事を前にして一昨年阪大に進学した兄を一心に褒め称える母に俺は「二浪もさせて何を言ってるんだい。二年もあったら生まれたての赤ん坊だって立って歩くぜ」等と憎まれ口を叩いてしまった。
母は激昂して俺をごく潰しだと詰り始めた、全く持って腹立たしいことに俺はごく潰しでありそれ以上でも以下でもなかったので、この世の中でかわされる母と子の会話のうちもっとも陳腐で最低と思しき台詞を口にした。すなわち「だれが産んでくれとたのんだんだ」。これは相当に恥ずかしい言葉であることを自覚しているが、とにかく俺はそのとき気が立っていたし、何より口論に負けたくなかったので気がつくとそれを叫んでいた。俺はこの件で、議論を終わらせる台詞と言うものには別に論理性や正しさと言うものは必要ないのだと悟ったのだが、そのときに関して言えば後の祭だ。それまで鹿爪らしく黙って俺達の次元の低い言い争いを聞いていた父はそれで初めて俺の方をじろりとにらんだ。神経質そうな銀縁の眼鏡越しにだ、そして穏やかに言った、「お前は一人で大きくなったつもりなんだなあ。いいだろう、それならお前は明日から自分の金で飯を食え、学校にも自分の金で通うんだぞ。武士の情けだ、今食っている飯くらいは俺が食わせてやる」
俺は親たちに二人がかりで言い負かされたのだ。俺は電力会社の走狗として安穏と暮らしている父の、そのまた扶養家族でしかない、最後は論理性も正しさも無い"議論を終わらせるための議論"によって見事に言い負かされた。俺も啖呵をきって家を出るくらいの心構えや決意があればいいのだが、そんな勇気などまるで持ち合わせてもいない。俺がしたことは自分でできる精一杯皮肉な笑いを浮かべて、夕食を打ち切って食卓を離れて自室に篭ることだけだ。げらげらとわらう父の嘲りを聞きながら。「ああ、全く我が子のことながら情けないことだ。どこで育て方を間違ったのかなあ!」
なんと冷たい家庭だとも思うが、しかしこの町ではみなこんなものなのだ。未来の無い町ではみんなが不幸になるほかは無い。そして不幸と言うものは、たいてい家庭のような小さな単位から発生するものなのだ。
 
俺は補習のあと、蒸し暑い帰り道を家へと歩いていた。堤防沿いを歩くといつものように潮の香りがしてきた。俺はこの風があまり好きではない。魚が腐ったようなイメージが頭から離れないし、漁協の周囲へ行くと今でもこのにおいがぷんぷんする。すでに奇形魚の影響で漁など誰もしておらず漁協は機能していなかったのだが、それでもこのにおいが密度を増したような濃密な生臭さは消えないのだ。
これは死のにおいだ、そしてこのにおいの分子のうちいくつかには放射性廃棄物が混ざっていて、それが一個でも俺の肺胞に取り付いたらそこでおしまいだ。猛烈な放射線は俺の内臓を腐らせて癌にしてしまうだろう。抗癌剤を投与され、のた打ち回って死ぬしかない。
俺は怖気をふるった。俺は痛みや苦しみに弱いのだ。病死してしまうのならいっそ一思いに、とも思うのだがそうもいくまい。俺は健気に看病する母や沈痛な表情で見舞いにくる友人と言うようなものを想像してぞっとした。げっとなった。そんな同情や、自己満足はいくばくも俺の苦痛を和らげないのだ!
  
いつものように俺は堤防から降りた。いつも海沿いを歩くと気分がわるくなる。これもあの原発の煙突の先から出ているストロンチウムとか放射性ヨウ素とかそういうもののせいだろうか、などと考える。こうしたことばかり頭に浮かんで俺はちっとも集中できない。全く情けないことだが俺には集中力と言うものが無いのだ。
 
そんな風にふらふらと歩いていたのがいけなかったのかもしれない。俺は全く自己嫌悪やら自己撞着やら執着やら嫉妬やらがないまぜになった気持ちでふらふらと歩いていた。まったく油断していた、そしておよそ歩道と言うものがない狭い道路のやや真ん中よりを木乃伊みたいに歩いていると後ろから爆音が聞こえてきた。なにかドラムでも連続で叩いているような音だったのだが、俺は「ああ、誰かがドラムを連続で叩いているのだ」と、そのままのありえない納得の仕方をしてしまい相変わらず集中というか注意力を欠いたままでいた。
その音が単車のエンジンの音だと言う常識的な判断ができるようになったときには、具体的な危機はもう俺の後ろ何メートルと言うところに迫ってきており、その直後俺は意識を喪った。失神するのなんて初めてだった。