晴子さんからの手紙(2)

「気ぃついたか?」
 学生は女の声で目を覚ました。学生と言うのも通りが悪い、この冴えない外見の高校生を仮にここではMとしよう。Mは女の声で目を覚ました。関西訛りの独特のイントネーションだ。Mの頭はずきずきと痛んだ。
「ここは」
 Mはその痛む頭を撫でながら疑問を口にした。「ここは何処ですか、一体僕は」
「まあ落ち着き。茶ぁ飲むか?」
 乱暴な言葉使いだったが内容自体はやさしい。Mは女から麦茶の入ったコップを受け取ると口をつけた。軽く口をつけ、冷た過ぎないことを確認してから飲み干す。
「あんたな、道に倒れとったんや。うちの家の前で」
女が扇風機の向きを修正する。風通しのいい家だ。縁側に向日葵が咲いている。
「あ」
 Mは唐突に思い出した。
「轢かれたんですよ、僕」
「まあ、事故かいな」
「そうです。バイクです、バイク。赤い大きなバイクでした。えらく大きな排気音の…」
 そのとき女はちょっと気の毒そうな声音になって言った。
「ちょっと、アンタ大丈夫やのん?うちな、通りがかりにみとったんや。アンタがぱったり倒れるところを」
「へ」
Mは呆けたように問い返した。
「もう少し寝とき。転んだときに頭でも打ったんやろ」
 そんな馬鹿な、とMは思う。自分がぼんやりしているとはいえいくらなんでもあれは現実だ。現にいま後頭部に酷いこぶができている。卒倒したくらいでこんなこぶができるものか。
 そう言い返そうとしたMに女は笑いかけた。だが。

その笑顔を見て―Mはぎょっとなった。

 年は三十にも満たないだろう、化粧っけの無い丸い頬にえくぼが浮かんでおり、笑うとさらに若く見えた。
その女の顔に、Mは確かに見覚えがあったのだ。そうだ、この女は確かにあの少女の母親だ。しかしなぜ彼女はこんなに屈託無く笑っているのだ?まるで前見たときとは印象が違うし、地元の学生を相手にするならもうすこし複雑な感情を持つのではないだろうか。
「うちは晴子言うねん」
 ああ、そうだ。その名前。名字がたしか―。
「神尾、晴子や」
 その名をMは知っていた。
 神尾。そして海辺の一軒家に住む狂人のうわさ。
 底知れない晴子の笑顔。まるでマスクをかぶったような、感情の欠落した笑顔だ。その証拠に、ほら、目が笑ってない。
 とてつもなく厭な予感にとらわれて、Mは再び身を横たえるしかなかった。