晴子さんからの手紙(6)

  
「あの俺、帰り、帰、帰っ」
Mは立とうとして肘を床についた。身を起こそうとしたが目の前になにかがおかれている。
「――――?」
 出刃包丁。
その肉厚のある包丁は晴子が持っていた。晴子は包丁を握り締めたまま卓袱台に手を乗せていた。
そしてその包丁、すこし汚れている。
汚れ。なんだ?汚れ?
―血?
頭がくらくらする。別に立てないわけでもないが酷く億劫だ。自覚していなかったが頭がぼんやりする。
まさかまさかまさか。まさか、そんな。いやまて、あの血が犯罪に関係しているとも限らない。しかしそうだとすれば包丁をここに持ち出す必然性がない。
「まあそういわんとゆっくりしてったらええやん」
そういう晴子の目はやはり笑っていなかった。口元は笑顔を作るように吊りあがっているが、唇の間から八重歯が見えていた。その八重歯もこういう時でなければチャームポイントだったのだろうが、いまはまるで鬼の口だ、そしてその顎で俺はかみ殺されるのだとMを恐れさせた。
「どうしたん?」
なおも首を傾げながらMに問いかける晴子。冗談ではない、俺は恐ろしいのだ。咄嗟にMはなにか話を振らなければと思った。
「ああああああの」
「ん?」
「こここここのたびは娘さんまことに残念なことで」
 ―あ。
その瞬間Mは猛烈に後悔した。全く話題を間違えてしまった、自分は虎の尾を踏んだのだと判った。そのくらい晴子の表情は激変したのだ。
もともと笑っていなかった目元から、晴子の顔全体に陰鬱の影は広がっていった。晴子は目をぎゅっとつぶり、搾り出すような声で言う。
「何を言うてんのん」
 地獄のそこから響くような声。それはまるで別人のもので、さっきまでの上機嫌な晴子の声は間違いで、この沈痛な面持ちの晴子こそ彼女の本来の姿、本来の気持ち、本来の声なのだとMは悟った。
観鈴は今日も元気にしとるで」
「あああああああの、でもでもでも」
「あの子今日はごっつい調子悪いみたいでなあ。涼しいところで寝とるわ。さっきも様子見にいったんやけど、赤ちゃんみたいにちじこまってなあ。ほんまあの子は寝相悪いよってに」
「あのあのあの、でも。みす…娘さんは先週」
「死んでないってゆうとるやろ!」
 どしん!晴子は包丁を上に向けて、その腕を卓袱台に振り下ろした。包丁の柄が卓袱台にあたり、派手な音を立ててグラスが飛び上がる。お茶を入れたポットが危うく倒れそうなくらい傾いた。
「みんなでよってたかってわけのわからんことをいうてからに…。どうせあいつらもウチをあの宗教に呼びもどそうという魂胆やろ。そうはいくかいな。いや、うちはどうなってもかまへん。でも観鈴は、観鈴だけは」
晴子は右腕を額に当ててうなだれてしまった。「うち、ごっつきもち悪いわ」そう間に一言はさんだあと、なおも晴子の呟きは続いた。
観鈴はゴールなんかしてへんねん。あの子はウチとこの夏を楽しんどるんや。夏祭りにはいかれへんかったけどな、海へ行ったり変なジュース一緒に飲んだりな。それをなんやかんやと毎日毎日、葬式の出し方にまでケチつけよってからに。この町の地区のえらい人までしゃしゃりでてきよったわ。なんで葬式の席で選挙の話がでるんや!ほんまにあいつら、折伏のことしか考えとらん。ほんまに」
Mは晴子のその話をおびえながらきくしかなかった。晴子の話自体が随分破綻したものだというのはわかったし、なにより晴子の表情がどんどん変化してゆき、目は寄って唇はとがり、まるで狐のような顔になっていた。
きちがいだ。
Mは晴子をそう断定した。
いかにフリークスタウンの住人とはいえ、Mはきちがいにたいして恐れを抱いていた。なにせきちがいはなにをしでかすかわからない。何年か前殺人事件がMの家の近所で起こったが、それは間違いなくきちがいの起こしたものであったことをMはよく覚えていた。
 きちがいという言葉を使わせないよう躍起になっている連中がいる。差別用語だなんだと。だがきちがいと言うものはすでにこの国から消失してしまったのだ。うつ病とか偏執狂とか統合失調とかそうしたものに振り分けられて、きちがいはこの国からいなくなってしまった。
だが目の前の晴子をみると、彼女をきちがいと呼ぶほかはないとMは思った。ネガティブな意味しかもたない、しかしそれは揶揄ではない。きちがいはきちがいとして気をつけなくては。
Mは心の奥でなにか冷たいものを感じた。俺はいまきちがいに拘禁されている!その事実は恐慌を彼に強いるに十分だった。
「そそそ、そうですよね。今日も娘さん、元気に学校にきてましたよ、がんばって補習受けてましたよ」
話を合わせなくては、Mはそう判断して半ば反射的に声を出していた。
晴子は一瞬なにかに突き当たったかのように動きを止めた。そしてうつむいていた顔をゆっくりと上げた。その表情には明らかに混乱が見て取れたが、みるみるさっきまで深く刻まれていた険が取れていた。
「そうか、そうなんか。あの子ちゃんと学校で勉強しとるか」
「ええそりゃもう」
 漸く会話が成立した。Mはこれ幸いとまくし立てる。
「まあいつも親しくさせていただいているんですけどね、いやほんとに観鈴さんはかわいくてみんなのにんきものですよとにかくなんの問題も無くいつも通り学生生活してますよ今日も元気に補習を受けてましたよ、ハハハ、まあ僕も劣等生で同じように補習を受けてましたけどね」
卑屈に笑うMに晴子は笑顔を返した。
「そうかそうか、あんたも大変やな。どうか観鈴をよろしゅうな」
その言葉、そのときの表情はきちがいと言うより母親のものだった。ふう、と心の中でMは安堵した。どうやら危機は脱したようだ。
「そうや」
晴子ははたと思いついたように立ち上がった。包丁を片手に。その鈍く汚れた切っ先がMの方を向いてMを緊張させた。
「あんた、観鈴を見舞っていってくれへんやろか。あの子今日はほんまぐったりして、動けん見たいなんよ。ちょっと話してくれるだけでええねん。な?」
穏やかな口調のそれは全くやわらかな、年上の女性やもしかすると母親のそれだった。いかにひねくれたMでも常ならばそれにほだされて、諾々と従ったかもしれない。だが今は壊れた玩具のように同意を表すよう首を上下に振っていた。なぜなら。
晴子は晴れやかな顔で、出刃包丁をまっすぐMに向けていたからだ。