晴子さんからの手紙(7)

笑顔と凶器。まさにきちがいに刃物、といったところだが、そのこっけいな言い回しとは裏腹に事態はまさに急迫している。なんと言うかにこやかな殺意と言うか、笑いながら刃物を向けられるとそのまま晴子にぶっすり気楽に刺されてしまいそうで、Mには恐ろしくてならなかった。
「そうか、すまんなあ」
是も非もない。Mは晴子に言われるまま立ち上がった。
「こっちや。ついてきたらええ」
晴子はMに背中を向けた。それはもしかするとチャンスだったのかもしれない。後ろ向きの晴子は無防備だった。突き飛ばすことも逃げ出すこともできそうだった。だがそれはかなわなかった。Mがヘタレだということもあったが、それ以上に有無を言わせぬオーラのようなものを晴子は発散していたのだ。
"逃げたら殺す"
幻聴だったかもしれない。だがMはそんな声を聞いたような気がした。
 
居間から一旦、玄関に出る。Mはいぶかしんだが声には出さない。ここはまさに逃げ出すと言う最大のチャンスだったのだが、とてもそんな行動に出る勇気はMには生まれなかった。
すたすたと玄関から家の側面へ晴子は回りこんでいく。そして粗末な小屋の前に立った。
(納屋じゃないか)
Mの疑念は頂点に達したが、それ以上に決定的なものが納屋の前に放置されていた。
赤いバイク。さっきMを轢き倒した、あの大型バイクだ。
やはり、Mを昏倒させ彼の頭にこぶを作ったのはこのバイクだったのだ、そしてこのバイクがここにあるということは。
Mのこころに瞬時にあきらめのようなものが湧いたそのとき、晴子は納屋の戸を開けた。
「みすず〜!おきとるか?あんたのおともだちやで」
そのとき納屋の奥からうめき声のような何かが聞こえてきた。それは人間の声のようだったが、非常にか細く、そして苦しげだった。
やばい。
Mは今日何度も何度も感じていた感情の冷たい井戸に今度こそ確実に投げ込まれた。これは、この声はやばい。この場所にいるべきではない。反射的に逃げようと体を捻りかけたMの腕に、急にものすごい痛みが走った。
「どこへいくのんや」
右手に包丁、左手にMの腕を握り締めた晴子が笑っている。あいかわらず声は笑っていないのだが。
「どこへいくのんや?」
晴子が繰り返し、いっそうMの腕を握る手に力を込めた。爪が二の腕に食い込んでMに情けない悲鳴をあげさせた。
「どこにも、ひぃ、どこにもいきませんですよはいいきません」
Mがやっとそれだけ言うと晴子は再び上機嫌になった。
「さよか。ほなちゃっちゃとみすずちんのへやに入ったってんか」
あんたは娘を納屋に入れてんのかよ、などと思いながら半ば自棄でMは晴子の言うとおりに納屋に入った。
そのとたんむせ返る様な―なんだろう、有機的な悪臭と言うか異臭のようなものがした。
納屋は昼だと言うのに薄暗い。おまけに夏の熱さで蒸したが、それ以上に不快だったのはまず匂いと、それと。さっきも聞こえた呻き声だった。
「ほら、観鈴、おともだちやで」
 そう言って晴子は納屋の隅に歩み寄った。そう、納屋の奥に何かがいてうごめいている。茣蓙が地面の上に敷かれていて、その上に。
 じゃら、と言う音がした、それは鎖だった。鎖にその何かはつながれているのだ。
「ウ・・・アウアウ」
 それが人間だと気がつくのに少し時間があった。あまりのことにMは呆然としてしまったのだ。
「アウアウアー」
 ぼか。晴子はその人影をいきなり軽くはたいた。
「その口癖、やめって言うとるやろ?ほんまに困った子やで…」
「アウアウ」
 慈母のような柔和な表情で語りかける晴子。その先には、Mと同じ年恰好の、それも同じ高校の制服を着た少女が座っていた。
そしてその佇まいはMに衝撃を与えるに十分だった。 
腰周りの大きなリボンや十字架のチョーカーでそれとわかったのだが、それ以外は酷いありさまだ。一体何があったのか、目もとや頬は腫れ上がりまるで壮絶な乱打戦を戦った直後のボクサーのよう。制服も所々がほつれたり破けたりしている上、どうやら下の方は何日も垂れ流しになっているらしい。汚物にまみれ、そのためそこから酷い悪臭がしているのだ。さっきのなんともいえないあのにおい、その正体がこれだ。
しかし晴子はそのことには委細こだわる様子も無い。
「さあ観鈴。あいさつしや」
 そう言って問いかけたその少女は、しかし神尾観鈴ではなかった。
 この子は、ええと。Mは記憶をたどった。ええと、そうだ。確か飼育委員の…。
 霧島佳乃。そうだ、霧島さんだ。