晴子さんからの手紙(9)

   
「…なんや、観鈴。眠ってしもたんかいな」
さっきまでの剣幕が嘘のように、晴子はやさしい声を出した。気絶したのかそれとも事切れたのか佳乃はぴくりとも動かなくなった。
 もし死んだのだとしたら。Mは震えた。俺はいままさに殺人を目撃したのだと。そう想像するだけでも恐ろしかった。
「しゃあない子やで、ほんまに」
 晴子はぐったりした佳乃の寝姿を整えて、Mに向き直った。いつのまにか床に置いていた出刃包丁を拾い上げる。
「すまんなあ。観鈴、眠ってもたみたいやわ」
「いやあの。あのあのあの。それは観鈴じゃ。あの、佳乃、ほらその、き」
「なんや?」
「いえなんでも」
 Mはそれきり何も言えなくなってしまった。佳乃と声に出した瞬間に晴子の形相が明らかに変わり包丁を握る手に力が篭ったからだ。
「そうか。ほならええわ」
 ふたたび晴子がMの腕を掴んだ。
「あの。あの僕、そろそ帰ろうかと」
「まあ待ち。メシでも食べていき」
 有無を言わせず。納屋の扉をいやに丁寧に閉めると、晴子は再びMを家の中へと引っ張りあげた。
 



















 
 晴子の様子がおかしいのは先刻承知の上だったので、その彼女に食事を振舞われるのはいささか気が引けた。それにさっきの少女、霧島佳乃の様子も心配だ。監禁、暴行、傷害…下手をすると殺人。
 Mは一番近い交番は何処だったかを思い描いた。そして頭を振る。駄目だ、あの交番までは走っても二十分くらいはかかるだろう。Mは己の鈍足を恨み後悔した。何で俺はスポーツの一つもやってなかったんだろう。それにその交番まで行き着いてもあの晴子の大型バイクが追跡してきたら。あのバイクはまさに怪物だ、バイクがあんなに大きくて重いものだとは思わなかったのだ。交番に行き着いても交番には電話が一台おいてあるだけ、無人であったとしたら?最近は特にお巡りさんも不在であることが多い。
駄目だ。Mは結局自分も監禁されているのだと思い至った。佳乃と同じだ、霧島佳乃が納屋で飼われて殴打されたように、自分自身も鎖でつながれて…。
「おまたせやでぇ〜」
晴子がやけに能天気な声とともに台所から現れた。手には何か鍋のようなものを持っている。ごとり、と卓袱台の上にその鍋を載せた。ほかほかと立ち上る湯気。白菜、ねぎ、豆腐…それと、肉。
この肉は何の肉だろう、Mには疑問だった。しかし聞くことはなんとなく憚られた。
そういえばさっきも佳乃の食事に肉が入っていた。あの肉も何の肉かわからない。思い返してもどうにもはっきりしない。ただ、旨そうな鍋であることは事実だ。
 しかしこの熱いのに鍋とは。Mはため息を付いた。何しろ相手はきちがいだ、熱さ寒さの理屈が通用するはずが、そう心の中で毒づいていると晴子はさらに一升瓶も持ち出してきた。
「アンタ、酒は呑めるんか」
 Mは首を振った。振ってしまったかと思ったが、晴子はそれでも上機嫌そうに言葉を繋いだ。
「さよか。でもまあ、軽く一口くらいは行ってみんか?」
 その晴子の声には強要するニュアンスは無い。ままよ、とMはコップを受け取る。
「お、話せるやないか」
とくとくと日本酒をMのコップに注ぐ晴子は本当に嬉々としている。Mのコップを満たすと、今度は自分のコップに手酌でなみなみとその酒を注いだ。
「乾杯や。ほんまは酒なんて、止めようと思ってたんやけどな。あかんわ、やっぱり。うち、情けないんやけど。観鈴には悪いんやけど、お酒は止められへん」
そう言う晴子は気の毒なほど沈み込んでいた。なぜかMまで切なげな気持ちになってくる。
そのころになるとMにも少々事情が飲み込めてきた。始めは観鈴のいじめに荷担したMを殺そうと接近してきたのかと恐れた、しかしはたしてそうなのだらろうか。Mには判断できない。
ただ一つ確実に言えることは、晴子は観鈴の死を受け入れていないのだ。神尾観鈴は確かに死んだ。何でも先天的に免疫機構がおかしくなる病気だったと聞かされているが、とにかく死んでいる。あの葬式は間違いの無いものだった。
つまり―神尾晴子は狂ったのだ。
 愛娘の死。それは耐えがたかったものなのだろう。だからああした奇行を行ったのだ。観鈴と佳乃を間違え、佳乃が自分は佳乃であると主張すれば暴力で屈服させる。そうまでして観鈴を求めているのだ、晴子は。
Mは少々同情的な気持ちになった。あまり親の愛を感じてこなかったMにとってそれは新鮮な感覚だった。依然恐怖感は続いているものの、なんとか円満な解決を図りたい、そう思った。
「ほら、おつまみやで〜」
晴子はなにか桐の箱に入った長方形のものを取り出した、随分上等そうな布で包まれたそれを無造作にひらく。中をのぞきこんでみると、さらさらの粉だった。
「カルシウムたっぷりや。食べたってんか」
そういうと晴子はそのすこし粗い粉末を手ですくって口へ運び、ぼりぼりと貪り食った、合間に酒をあおる。
その、粉末を口に運び、酒で流し込むしぐさには迷いが無い。その粉末はそんなにうまいのだろうか、そう思ったのがさすがに手を出すには及ばない。何しろMの前には結構な量の鍋が鎮座していたからだ。
「はよう、食べや。さめるで」
「晴子さんは」
「ウチはこれでええよ」
 先刻のあの粉末を再び口に運びながる言う。
「あんた一人でその鍋つついとったらええねん」
そういうと晴子はさっきの小さな木箱に手を突っ込み、ぼりぼり食べている。