晴子さんからの手紙(10)

―あの白いのはなんだろう。Mには見覚えが無かった。
まあそのことはMには関係ない。問題は目の前の鍋に毒物があるかないかということだった。なにしろ何度も言うようだが相手はきちがいだ。おまけにさっきこの女が監禁した女の子がいて、なおかつそれを殺したところまで見ているのだ。
眠り薬とか。呑んだとたんにカタワになるような酷い毒物とか。
ほかほかと煮えたぎった鍋。問題はそこにある肉だった。この肉、一体何の肉だろう。鶏肉にしては色が濃いし、牛や豚の肉にしては硬そうだ。
Mはなんとか箸を手に取った。そしてそのまま迷い箸―行儀が悪い。
が、そのとき。晴子は意表をついた行動に出た。
ひょい、と鍋に指を差し込んで目の前の鍋の肉を摘み上げたのだ。熱そうなそぶりすら見せずしっかりそれを摘み上げる。
観鈴…」
肉を見つめながらいやに切なげな声で晴子は呟いた。
「なんや、よう食べられへんのか…。こんなに美味しくて、ええものほかに無いのに」
さっきつまみと称して何かをむさぼっていた木箱をいったん卓袱台に置いて、晴子は高々と肉を持ち上げた。顔より上に差し上げ、垂れ下がった肉の切れ端を下から口に含む。
晴子のやや厚ぼったい唇が生めかしく動く。少しだ液で湿らせたその赤い皮膚の蠕動はまるで性器のようで、未だ童貞のMには扇情的だった。
「ん、んん…。…っ。はぁ…」
晴子は随分と長い時間をかけて咀嚼を繰り返した。そして最後のかけらを飲み込んだときも晴子は、
「ああ、観鈴…」
と娘の名前を呼んだ。目元が潤んでいる。
「どうや。別に毒なんか入ってへんよ」
Mは内心を言い当てられたので心臓が止まるかと思うほどに驚いた。
「いや毒なんてそんな」
晴子はにやりと笑うとまたさっきの箱を取り上げてぼりぼりとその中身を貪り始めた。その間にも晴子は「観鈴観鈴…」と呟いている。 うつむき、髪の乱れも気にせず口を動かすその姿は、まるで餓鬼のようでMを恐れさせるに十分だった。
Mは覚悟を決めた。箸を動かす。
やはり問題は肉だ。野菜やらは不審な点も無いが、肉は見たこともない種類のもので非常に嫌な予感がする。
だが―晴子が毒見をしたのも肉なのだ。とりあえず、肉は安全と言えるのではないか。
一瞬の間にいろいろな考えが行き来し、結局Mは肉に箸を伸ばした。
 いずれ全ての食材に手をつけなければならないのだ。それならば一番気になっているものを。
「……」
取り皿にその肉を取る。味噌で味がついてあるようだ。
「いただきます」
 ぱくり。Mは意を決してそれを口に入れた。と同時に晴子を見る。
 そのときの晴子は切なげで、歓喜と絶望が入り混じったようななんともいえない表情をしていた。
 晴子は何も言わない。さっきまで忙しく動かしていた手も止めていた。
「―旨い」
 それは世辞でもなんでもない、事実だった。
「…ほんまか」
「ええ、本当ですよ。なんと言うか、すこし酸味がありますけど旨みがよく出ていて、口当たりも良い。美味しいなあ」
「…そうか」
 あんなにMに対して強圧的だった晴子の態度が、どことなくそっけなくなったような気がした―のもほんの一瞬のことで、晴子は目に見えて機嫌がよくなった。
「そうかそうか、ごはんもよそってやろか?まあ待ち、麦茶を入れたるさかいに」
 Mはほっと気を許して、安心しきってがつがつと鍋を食べ始めた。晴子の料理の腕はなかなかのもののようでどれも旨い。だが特に旨いのはこの肉だ。
「ほらほらそんなに一生懸命食べたら喉につかえてまうで」
 かいがいしく世話を焼く晴子はまさに気の良い母親のようだった。こんなに若い母親と言うのも珍しいのだが、一体年はいくつなのだろうか。
 Mは、娘をいじめ殺された復讐かも知れないという疑念をいまの今まで捨てきれなかった。しかしそうした意図は晴子には無いようだった。
「よう食うなあ。そや、おかわりもってきたるわ」
Mにはもう恐れも遠慮もなくなってきていた。すこし酒が入って酔っ払っていたのだ。さっきの納屋で見たあの恐ろしい暴力も、嘘だったようにすら感じられる。Mはあまり酒に強いほうではなく、随分と良い気分で、物事が楽観的に見えるようになってしまった。
「いやそんな」
「ええからええから」
 立ち上がった晴子は台所へ入っていった。アコーデオンカーテンをひらくと、台所がよく見通せた。背の高い二ドアの冷蔵庫が目に入った。
「ちょっと待ちや」
がば。晴子が冷凍室の扉を開ける。
その冷凍室には―肉がぎっしり詰まっていた。
はて、この家はもともと二人暮らし、今は一人しかいないはずなのに。Mは小首を傾げた。そんなに大量に肉を買い込むような必然性があるのだろうか。
晴子はその冷凍室から大きな肉の塊を取り出した。なぜか取り出した位置で止まる。
観鈴…」
また娘の名を呼ぶ。そうしていとしげにその冷たい肉の塊を手のひらで撫でつけた。
Mにまた、さっきまでの妙な違和感のようなものが感じられた。その違和感は、悪い予感、気味の悪さとなってMを包んだ。
「あの、晴子さん?」
いっぺんに酔いが覚めたMが声をかける。いささか震えている。そして、さっきまで避けていた質問をぶつけた。
「晴子さん……これって、何の肉?」
予感は確信に変わりつつある。
恐らくそのときの間というか沈黙と言うか、そしてその後のいやに落ち着いた晴子の声と、そして―Mにとりついた呪いのような全て。何もかもが不気味に彼を侵食する。