空中勤務者 1

1943年 6月9日 木更津
 逼迫する戦局のなか、髀肉之嘆をかこっていた私だったが、とうとう南方への進出命令が下った。
 早朝。兵舎を出て滑走路の方へ歩き出す。格納庫ではすでに私たちの零戦の暖気作業が始まっているのか、エンジン音が篭ったように響いている。内地のひんやり湿った空気が身にまとわりつく中、明るくなりだした滑走路脇で私は立ち止まった。
 今日は晴れだ。ふと背後に気配を感じ振り返ると、分隊士の岩田鉄三上飛曹が煙草を咥えてだらだらと歩いてきた。
 私はにっこり笑った。
分隊士、おはようございます」
上飛曹は中国戦線から戦い抜き、すでに多数の敵機を撃墜した大エースだ。しかしこのときの岩田上飛曹は明らかにぼんやりと足元もおぼつかなかった。
「イワテツ(岩田鉄三の愛称)さん、また…飲みすぎですか」
 すると上飛曹は破願して言う。
「アハハ、昨日は最後のシャバだからな。ランチキ騒ぎもいいところだよ。さっきまで女の肉布団に包まってたさ」
 豪傑笑いにこちらまで可笑しくなる。
「村田、お前はどうしていた」
「妹と映画を見に行ってましたよ」
「色気がないねぇ。何見てきたんだよ」
「加藤隼戦闘隊」
「チッ、ヘル談(猥談のこと)のひとつもできやしねえな。そんな聖人ぶってると早死にするぜ。そもそもなんでそんなムードのない、それに陸さんの…」
 そこまで言って岩田さんは口をつぐんだ。 
 娯楽といっても、そんなものしかないのだった。

 二人並んで滑走路に立つ。零戦はすでに列線に並べられている。零戦22型。美しい機体だった。
 
 南方の戦況は逼迫している。われわれは204航空隊の先遣隊として、まず9機の零戦ラバウルまで進出するのだ。
 実戦経験者は今私と並んでいる岩田鉄三上飛曹―中国戦線から空母瑞鶴乗り組みの歴戦の猛者と、千歳空時代、クワジェリンでなんどか邀撃戦を戦った私の二人だけ。中隊長の木田大尉はじめ、残りのものは実践未経験だった。


 おそらく生きて内地の土は踏めまい。
 さほど感傷的になるわけでもない。それはもはや決まったこと。ならば、いかにして死ぬか、だ。
 やがて太陽が登ってきた。最後に内地で拝む日の出だ。思わず私は手を合わせた。故郷の人たち。家族。この国。
 それらの安寧をひたすら願った。岩田さんはぼんやり煙草をふかしている。



 今日は硫黄島までの移動だ。艦攻一機が先導してくれるので、航法の不安はない。