異動願い
5年前の原子力発電所の致命的な事故にミルフィーユは酷いショックを受けたようで、日に日に言葉数は少なく、また動きも枷を嵌められたように重たく、表情も曇りがちで。
病は気から、というのだろうか。彼女は胃に腫瘍まで作ってしまった。良性のものとはいえ、これには正直心胆を寒くするものがあり。
しかも近頃のミルフィーユはその痛みをひとつも口にしないのだ。以前はすこし腹が痛むだけで子供のように大騒ぎしたというのに、だ。
食欲がない、疲れたとのみ言うだけ。あのとき医者に見せるのが遅ければ、いくら良性と入っても致命傷になりかねなかった。
ずっと仕事にかまけてミルフィーユさんをすこしないがしろにしていた反省もあるし、思い切って上司に地方都市への転勤を申し出てみた。子供がいないのが不幸中の幸いだった。
世間の景気が悪い中、我々だけはどうやら例外のようだった。以前より忙しく、人もモノもやり取りは活発になっている。
家庭の事情も考慮の上、めったに通らない転勤願いは受理された。
「物好きだな、君は。この先間違いなく…」
壮年の、以前は傲慢なほど溌剌としていた尊敬すべき上司は淀んだ表情でそう言った。組織にぶら下がっているだけの奴は要らない。そんなことを酒席で語っていた、彼の面影は消えうせていた。
おそらくその上司から受け取る最後の厚意であろう転勤辞令を受け取って、私は九州のいまひとつぱっとしない街へやってきた。
新幹線から在来線に乗り換えて3駅。
このところの新幹線の間引き運転も酷いものだったが、在来線はさらに30分以上ダイヤらから遅れていた。
国土の汚染と経済の衰退。異常なまでに右傾化したこの国は軍事費に膨大な予算を割くようになり、そのツケはインフラに及んでいた。
電力不足のためディーゼル化されていた列車を降りる。夕暮れのホームに人影はまばらだった。新居はここからさらに10分ほど歩いたところにある。引越屋との約束の時刻までは少々時間があった。
まだ初春の時節だ。あの事故から5年。みんながこの国、この世界に未来がないことを少しずつ思い知らされてゆく5年だった。
「嫌ですね」
ほとんど列車の中で口を開かなかったミルフィーユが、改札を出たとたんに呟いた。
「寒いかな。どれ、カイロいるかい」
私は使い捨ての携帯カイロの封を切った。軽く揉んで、彼女に渡す。
「いいえ、あれ−−」
空を見上げると、ジェット機が二機、西へ向かって飛行機雲を描いていた。爆装した支援戦闘機だった。
「もう守るべきものも、失うものもないのに、何故戦おうとするんですか。ねえ?」
数年前には想像もつかなかったぞっとするような表情でミルフィーユは言った。何の抑揚もない、静かな声だった。
(国民の不満をそらすためだ。昔から為政者はそうして戦争を煽ってきた)
昔ならそんなことも言ったのかもしれない。でも今となっては、もうそんなことも無意味だった。
「もうほかにすることもないからだよ、ミルフィーユ」
それでもミルフィーユは私が差し出した手をそっと握ってくれた。少し冷たい手だった。
自衛隊から国防軍に改称された職場。私の配置は間違いなく最前線だ。どこにいても同じこと。核事故の毒を呑むか、敵弾に倒れるか。
「ミルフィーユ、そのう…」
私は言い淀んだ、まったく無様なものだ!自分自身に腹を立てたとき、不意にミルフィーユが微笑んだ。ぱっと磁気を放つような特別な笑顔だ。
「いいんですよ、気にしないでください。最後まで、一緒ですよ」
ああ、今となってはそれで満足だ。彼女を守る、というのはもはやエゴなのだ。あの忌まわしい事故がすべてを奪い去って以来、未来がなくなって以来、そうしたかっこうのいい言葉はすべて意味を失って、死んだ。
死。そうだ、死を語るときのみ、彼女は昔の屈託のない抜けるような笑顔を見せてくれる。
ところは違えても、きっと同じに死のう。ミルフィーユの顔を覗き込む。彼女の瞳は少し帳がかかっていたように瞼が重そうだったが、きちんと目線を合わせくれた。そして私の意を汲んでくれたのか。
静かに頷いてくれた。