荒野のガイガーカウンター

 海。海だ。今日の太平洋は穏やかだった。

「誰もいませんねえ」

 砂浜に立ったミルフィーユがおれに背を向けたままつぶやく。おれは麦藁帽をかぶったミルフィーユの後ろ姿を眺めながら、そうだね、とだけ答えた。

 12月というのにまるで春先のような陽気の海岸は暖かく、その異常気象自体の不気味さを除けば、きらきらと陽光がきらめいて、本当に美しい海だった。ミルフィーユはお気に入りの明るい色のワンピースをひらひらさせながら、海に近づいていった。

「本当に、誰も」

「うん」

 あと、人類はいったい何人生き残っているんだろう。経済の崩壊、内乱。紛争。一年前、あの事故が起こって以来というもの(おれはそれを一柱の破壊の神が現れたように感じた)情報なんて、まともには入ってこない。

「いなくなっちゃったんですよねえ。みなさん」

ミルフィーユ…」

「大丈夫です。あまり悲しくないですから。だって、私たちももうすぐ」

 振り向いたミルフィーユはとても晴れやかな笑顔をしていた。人が死に、環境が汚染されることを嘆き続けていたミルフィーユだったが、最近は昔のような笑顔を見せてくれる。

 ありがたいことだ。世界中の人が苦痛の中で息絶えていく中で、おれは彼女のやさしさ、純粋さを感じながらいまだに生きている。

「でも、この海がとても病んでいるなんて、この空気がひどく汚れているなんて、信じられないです。こんなにきれいなのに。お花畑だって。そうだ、丘の上のさくらの木、きっと来週には満開ですよ」

 

 東北地方に建設された核燃料再処理施設が致命的なアクシデントをおこしたのは、去年のことだった。その日人類は滅んだんだと思う。この世界に生まれてくる新しいいのちには祝福はない。そして、生き残っている人も緩慢な死を迎えるだけだ。いま、おれたちの身体も徐々に放射線という見えない暴力によって責めさいなまれているはずなのだ。

 放射性物質は世界中にばら撒かれた。最後のいのちの灯火が消えた後は、この惑星は何十万年も立ち入り禁止の、文字通り死の惑星になる。大気中にばら撒かれた放射性物質半減期はどれも何万年や何十万年、ものによっては何十億年というでたらめな数字だった。

 あの時ミルフィーユを連れて、あえて北へ向かったのはある意味正解だったと思う。どうせ、どこへ逃げても同じことなのだ。みなが南へ南へ逃げるのを尻目に反対方向へ東北道をたどり、無人となった漁村の一軒家を拝借して、おれとミルフィーユはこの一年を過ごした。誰も訪れるものはいない。それまでの生活がうそのような静かな一年だった。たぶん、それももうすぐ終わる。

ミルフィーユ、その」

 おれたちはいつものように、砂浜に腰を下ろした。静かに波が寄せては返す。潮の香りがする。ミルフィーユはなんのけなしにだろうか、砂を弄んでいる。手の中に軽く砂を握り、ぱらぱらと落とす。細い糸のように地面に落ちた砂は小さな山を作った。その山をミルフィーユの小さな手が崩して、また掴んだ。

「好きだ。愛している」

「私もですよ」

 間髪いれず答えて、ミルフィーユは同じ動作を続けた。昔は言うほうも言われるほうもとても照れてしまったものだけれども。何の情報も入ってこない、自分たちがいつ死ぬかもわからない。そんな中で、どうしても日に何回かは言葉に出して確認しておきたかったこと。

 それは、お互いの気持ちだった。

「さあ、今日もお菓子を作りますね」

 ミルフィーユが立ち上がる。ワンピースについた砂を払った。お菓子を作るための材料も、電気もガスも水道もここにはあった。電気は村役場の自家発電機を利用した。燃料はガソリンスタンドにいくらでもある。ガスはプロパンガス。水は少し苦労したけれども、山を登っていくときれいな湧き水があった。

 きれいな?もちろん、一年前この世界を支配した不条理な法則からは逃れることはできていない。けれども新鮮でミネラルに富んだ、その湧き水はミルフィーユのお菓子作りに必要なものだった。

 食材もこのところは限られてきたけれど、保存のきくものでいろいろとミルフィーユは作ってくれる。

 海岸から道路へでる階段を上りながら、ミルフィーユに聞いた。

「どこか、痛いところはない?体の調子、大丈夫?」

 ミルフィーユは少し肩を震わせて、そうして答える。

「まだ、大丈夫みたいです。その、あなたは?」

「おれも大丈夫だよ。でも」

「ええ。痛くならないうちに」

 病に苦しむ前に、自らいのちを絶つこと。これはかなり早い段階で決めていたことだ。お互いが苦しむさまを見ていられるほど、おれたちは強くなかった。そのための薬物も、病院から持ち出してある。

「せめて、桜が見たいなあ。お花見、というのもいいね。ミルフィーユ、今年はお酒を飲んでみるかい?」

 ミルフィーユがぱっと振り向いた。

「そんな、私、未成年…」

 少しあわてたように言って、そのあと。とても静かに。

「でも、最後に一度、飲んでみたいと思ってたんです」

 笑いながら言って、階段をまた登りだした。

 桜が咲いたら。そのあとは、多分。

 けれどそのことを悲しいとも恐ろしいとも思わなかった。多分ミルフィーユが一緒だからだとおもう。